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月永理絵
ホン・サンス映画の人々は
もう韓国焼酎を飲まない
3回連続で、ホン・サンス最新作「小説家の映画」を異なる視点で、異なるレビューアーが批評する、第参回。
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ホン・サンスと聞けば酒。そしてその映画のなかで飲まれるのは、というより、次々に中身が空けられテーブルの上に並べられるのはあの緑色の瓶。登場人物たちは、とにかく韓国焼酎(ソジュ)を飲みつづける。ところがどうもここ数年、その好みが変わりつつあるようだ。「逃げた女」(2020)では友人同士の食事のお供にワインが提供され、「あなたの顔の前に」(2021)では、中華料理と一緒に金色の蓋を持つ高粱酒(白酒)の空き瓶がずらりと並んでいた。そして新作「小説家の映画」。ここで不思議な偶然から再会する人々が飲み交わすのは、大量のマッコリ。そういえば、「川沿いのホテル」(2018)でもマッコリが登場していたはず。
もちろん過去作でも韓国焼酎以外の酒が飲まれることはあったが、それでもここ数作での酒の変化は見逃せない。監督自身の好みの変化なのか。それとも、現在彼の協働者であるキム・ミニの好みか(実際、「小説家の映画」では、キム・ミニ演じるギルスが「好きなのはマッコリかワインです」と語っている)。どちらにせよ、酒の変化が映画そのものを変容させたのは間違いない。と断言したくなるほど、ここ数年、ホン・サンスの映画は変わりつつある。かつて韓国焼酎を飲み、くだを巻いていた男たちが退場し、代わりに女たちがマッコリやワインを飲むようになった。これまで必須の要素だった「恋愛」が姿を消し、代わりの女性たちの「友情」が現れた。そうして男たちの泣き言や愚痴が、女たちの親密な会話に取って代わった。
とはいえ、恋愛の影は必ずしも消えてはいない。「逃げた女」では、キム・ミニがしばらく会っていない友人たちを訪ねるうち、彼女がかつて経験した過去の恋愛が浮かび上がる。「あなたの顔の前に」では、映画監督が女優に自作への出演を請いながらいつの間にかそれがセックスの話に変わっていく。だが「小説家の映画」では、もはや恋愛は、ただ女の口から語られる話でしかなくなってしまう。年上の著名な彫刻家と結婚した女優。かつてある男性と一夜だけの関係を結んだ小説家。どちらもいかにもホン・サンスらしい恋愛関係でありながら、晴れ晴れとした顔の女によって語られる、過去の話でしかない。
そもそもホン・サンスが描く恋愛は、感情のドラマからはつねにかけ離れていた。恋愛は、人々の複雑な力関係をあぶり出し、くりかえしのゲームを演じるための道具にすぎない。だからここ最近、彼の映画から恋愛という題材が退き、女性たちの友情や、仕事をめぐる協働関係が現れたとしても不思議はない。人々の出会いや別れ、そして再会や衝突を引き起こすきっかけは、恋愛でなくてもかまわないのだから。
こうして、恋愛をできるかぎり排除した新しいマッコリ映画=「小説家の映画」が誕生する。ワイン映画=「逃げた女」と、白酒映画=「あなたの顔の前に」を牽引したふたりの俳優たち、キム・ミニとイ・ヘヨンが改めて邂逅し、協働関係を結ぶのだ。ふたりにはある共通点がある。キム・ミニ演じる俳優のギルスは、夫との結婚後、映画への出演を控えており、しばらく復帰の予定はないという。イ・ヘヨン演じるジュニも著名な小説家だが、最近はずっと作品を発表していない。しかしふたりには、これまでホン・サンスの映画に登場してきた、スランプに陥った映画監督のような苦悩は見当たらない。むしろ、作品をつくれないことを不本意で惨めな状態だと勝手に決めつける者に、正面から異議を唱えてみせる。古臭い物語におさまるつもりはない、私たちはもっと自由になるべきなのだ。郊外の街で偶然出会ったふたりの女は、またたくまに意気投合し、新たな試みを始めようと語り合う。
彼女たちは軽々と、快活に、これまでの「映画」とはまったく別の何かをつくりだす。それはホン・サンス自身の新たな挑戦でもあるのだろう。ただし、清々しく爽快なこの映画にも、ぬめりとした暗い影が見え隠れすることを忘れてはいけない。冒頭に響くある女性の怒鳴り声。もはや話にならないと立ち去るまた別の女性の苛立った顔。手を取り合う女たちもいれば、決裂する女たちの関係もある。恋愛が姿を消しても、ホン・サンスの映画から不穏な影は消えてなくならない。
小説家の映画
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン/キム・ミニ
2022年製作/92分
英題:The Novelist's Film
配給:ミモザフィルムズ
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6月30日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開
ホン・サンス特集上映開催
菊川 ストレンジャー
ホン・サンス特集タイムテーブル
日時:2023年6月20日(火)~7月6日(木)
最初期・転換期・現在期の9本をセレクト上映