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チョン・ウンスク
仁寺洞のマッコリ酒場と
薄暗い路地
「ホン・サンスの映画に難しい解釈は不要。登場人物といっしょに旅や散策を楽しもう」
と言ってやまない、ソウル在住の紀行作家チョン・ウンスク氏。彼女に6月20日から東京・墨田区菊川の「ストレンジャー」で公開される9作品のなかから、2000年にソウルで撮影された「オー!スジョン」の旅情アイテムについて書いてもらった。
「オー!スジョン」旅情アイテム二景、仁寺洞のマッコリ酒場と薄暗い路地
人を旅に駆り立てる映画として、チャン・リュル監督作品と双璧なのがホン・サンス監督作品だ。6月20日から菊川のストレンジャーで特集上映される9本のなかから、2000年に韓国で公開された「オー!スジョン』の、旅情を喚起させる「二つの装置」を見てみよう。
■「オー!スジョン」
【あらすじ】
テレビの構成作家スジョン(イ・ウンジュ)が、不倫相手の先輩ヨンス(ムン・ソングン)を介して知り合った画廊経営者ジェフン(チュン・ボソク)と、ソウルで逢瀬を重ねながら少しずつ距離を縮めて行く。
装置1 マッコリ酒場
撮影当時はまだ渋い骨董街だった仁寺洞の路地裏。
天井が低く、壁には落書きだらけの店でヨンスとジェフンがマッコリを飲んでいる。テーブルの中央には鍋物とマッコリが入ったやかん。
カメラが店の外観を捉える。木造平屋の古びた建物。そこにスジョンがやってくる。
「オー!スジョン」が撮影された当時の仁寺洞
仁寺洞の路地裏にあったマッコリ酒場、通称「コカルピチプ」にやってきたスジョン(故イ・ウンジュ)
「コカルビチプ」でマッコリを飲むスジョンとヨンス(ムン・ソングン)とジェフン(チョン・ボソク)
ホン・サンス作品はたいてい低予算なので、セットが組まれることはまずない。この店も仁寺洞の路地裏に実在したマッコリ酒場だ。正式な店名はなく、「コカルビチプ」(サバ焼きの店)とか 「ワサドゥン」(ガス灯)などと呼ばれていた。
マッコリは日本のどぶろくと同じ濁り酒の一種だが、アルコール度数は5~6度しかない。農酒という別名があるように、畑仕事で疲れた農夫がマッコリを飲んで昼寝し、体力を回復させるために飲むものだった。
ソジュ(韓国焼酎)のように一気飲みして短時間で酔っ払う酒ではなく、ゆっくり飲んでだらだら語り合う席が似合う。本作でヨンスとスジョンとジェフンが続けていたような他愛もない会話が似つかわしい。
私がこの店に通うようになったのはこの映画が撮影された頃だったが、マッコリはやかんではなく、洗面器で提供されていたと記憶している。柄杓代わりのお椀がぷかぷか浮いた状態で運ばれてくるのがおもしろかった。
洗面器になみなみと注がれて登場する「コカルピチプ」のマッコリ
劇中、ヨンスのセリフにもあったように、この店ではコカルビ(サバ)ではなくイミョンス(ホッケ)がメインのつまみだった
今でこそマッコリは産地ごとに多様化し、ボトルのデザインも洗練されているが、撮影当時は時代遅れの酒だった。空前のマッコリブームが起きる10年も前のこと。焼肉屋や大衆酒場にはマッコリはなく、仁寺洞の民俗酒店(民芸居酒屋)やバンカラな気風の大学街の学士酒店(学生向けのマッコリ酒場)で飲むものだった。
「オー!スジョン」のマッコリ酒場のシーンには、「コカルビチプ」の女将も写っている。写真は映画公開の翌年の女将
この店は午後一時から営業していたので、土日に日本から来た旅行者を連れて行くことが多かった。隣にはバッティングセンターがあり、昼酒でほろ酔いになった五感に「カキーン」という音が気持ちよかった。
12年後の2011年、この店は再びホン・サンス監督作品に登場する。仁寺洞や北村を舞台に撮影された『次の朝は他人』だ。田舎でくすぶっている映画監督ソンジュン(ユ・ジュンサン)が先輩に会うために上京する。先輩となかなか会えず、時間につぶしに昼酒でもと入った店が「コカルビチプ」だった。
外壁はこの数年前に火災で焼失し、以前の趣ある木造建築は無味乾燥なプレハブに変わってしまった。しかし、落書きだらけの内装は昔のままだ。この頃の仁寺洞は明洞化が進み、かつての骨董街の枯れ味は失われていたが、この店の内部だけは『オー!スジョン』撮影当時のままだ。
改装後の「コカルビチプ」
2022年、仁寺洞の南端に再開発の波が押し寄せ、「コカルビチプ」はなくなった。「オー!スジョン」にも映っていた女将に電話すると、「場所を変えてまたマッコリ屋をやるかも」と言っていたが、2023年6月現在、開業の知らせはない。
2023年2月に撮影した「コカルビチプ」の跡地。2枚目の写真と見比べると、背後に残っている建物が確認できるので、かろうじて同じ場所だとわかる
装置2 薄暗い路地
「コカルビチプ」でマッコリを飲み過ぎて正体不明になったヨンス(ムン・ソングン)を、仁寺洞のメインスリートでタクシーに押し込んだジェフン(チョン・ボソク)とスジョン(イ・ウンジュ)。邪魔者が消えたこともあり、帰りがたい気持ちになっている二人は仁寺洞の東側、鍾路3街の楽園商街のほうに目的もなく歩く。
「おもしろいところがあるから行きましょう」
ジェフンが薄暗い路地にスジョンを誘い込み、強引にキスをする。
「やめてください!」
うぶな田舎娘のように叫ぶスジョン。
なんとも時代遅れなキスシーンである。
私が鍾路3街の魅力に憑りつかれ始めた2010年頃、手招きをしているような路地を見つけてはくまなく歩いていた。ある夜、屋台で深酒したので、ひとり酔い覚ましに散歩しようと楽園商街のビルを南から北に抜け、最終電車に乗ろうと安国駅のほうに向かって歩いた。
スジョンとジェフンがキスをした路地。この写真は楽園商街側の三一大路側から撮影
大衆ビアホール「OB楽園HOF」の前を通り過ぎた辺りで、左手にすれ違うのがやっとの路地がおいでおいでをしている。23時過ぎ。街燈がかろうじて路面を照らしているが、人の気配はまったくない。少し怖かったが、20メートルほど進み、最初の路地を右に曲がると、すでに営業時間を過ぎていたが、飲み屋らしき店が2軒ほどあり、そこを抜けると仁寺洞らしい画廊や民俗酒店が現れ、ホッとした。
拙著「旅と酒とコリアシネマ」(Strangerにて絶賛販売中!)のカバー写真は、スジョンとジェフンのキスシーンが撮影された路地で撮ったもの
以来、どういうわけかこの道を好んで通るようになり、途中にある「自喜香」という全羅南道料理でマッコリを飲ませる店にも通い詰めた。この店は最近、安国駅6番出入口の近くに移転している。
2018年頃だったか、いつものように路地を歩いていて、ハッとした。ここはスジョンがジェフンに唇を奪われた路地ではないか。この路地を写真に撮り、「オー!スジョン」のDVDをPAUSEにして何度も見比べる。間違いない。20年近く経ってもほとんど景色が変わっていないことが幸いした。
ホン・サンスの映画にはこんな楽しみ方もあるのだ。
ホン・サンス特集上映開催
菊川 ストレンジャー
ホン・サンス特集タイムテーブル
日時:2023年6月20日(火)~7月6日(木)
最初期・転換期・現在期の9本をセレクト上映
*6月23日(金)16:40「カンウォンドのチカラ」上映後、映画評論家・佐藤結さんのトークイベントが開催される
小説家の映画
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン/キム・ミニ
2022年製作/92分
原題:The Novelist's Film
配給:ミモザフィルムズ
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6月30日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開