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「カンウォンドのチカラ」

A PEOPLE CINEMA

カンウォンドのチカラ
オー!スジョン

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夏目深雪


そして金魚は時空を乗り越える

二部構成の映画の系譜というものがある。
ホン・サンスの二作目「カンウォンドのチカラ」(98)も三作目「オー!スジョン」(00)も厳格な二部構成だ。

私が初めて二部構成の映画を観て驚いたのは、アピチャッポン・ウィーラセタクンの長編4作目「トロピカル・マラディ」(04)だった。

タイの農村を舞台にゲイの青年たちの日常が描かれる前半と、森の中の虎と人間との対峙が描かれる後半に、ほぼ登場人物や説話の関連がないのだ。

長編2作目「ブリスフリー・ユアーズ」(02)は、登場人物は同じだが舞台が森の中に変わるという、より緩やかな二部構成であり、長編5作目「世紀の光」(06)では後半は前半部分のマイナーチェンジであり、その差異で映画全体を揺さぶる。

だが私の中でこの二人は当時は結びついていなかった。
「カンウォンド」は日本では12年、「オー!スジョン」は08年にDVD発売されたのみである。

だが実は私は「オー!スジョン」の韓国版DVDを持っていて、だからおそらく2000~08年の何処かで買ったのだろうが、それでもアピチャッポンと結びつかなかった。

それはテーマの違いが大きいであろう。
常に男女関係が主題となるホン・サンスと、ゲイのカップルや森、タイの精霊や民話が主題となるアピチャッポンとでは、イメージがかなり異なる。

男女関係と言っても今や韓国映画の専売特許となった「純愛」よりは、不倫や浮気や二股といった、より俗なところを狙い打ちするようなホン・サンス。

露悪的であり、よく言われるようにロメールの後継者的なところを監督自ら望んでいるようにも見える。

そもそも監督自身をモデルにしたような映画監督の男が主人公の作品が多く、露悪的というのはそういう意味だが、「夜の浜辺でひとり」(17)の記者会見の席で、キム・ミニとの不倫関係を公式に認めてからは、「私映画作家」のイメージも固定的なものとなった。

さて、何故この二人が二部構成の映画を作るかである。
通常のナラティブの映画への抵抗というポストモダン的な態度であることは確かである。二面マルチスクリーンで上映するインスタレーションもあるアピチャッポンは、アート作品からの発想でその分断を行っていると思われる。

ホン・サンスの方が90年代に既に行っていて早いのだが、彼は美術を勉強したわりにアート作品はなく、短編作品こそ少々はあるものの、発想の起源はよく分からない。

アピチャッポンは、要は直角に面すスクリーンで同時に流してもおかしくないような関係の二部である。

緩やかに繋がり、関係し合う。特に二部を観た後の結論が用意されているわけではないユルさが、観客に違う解釈の可能性を開いていて現代的である。

ホン・サンスは、アピチャッポンの並列的・横の線に較べると、あくまでも縦で直線的である。

一部を観た後に二部も観ることが想定されている。結論もわりと普通の劇映画並みに用意されている(やり方は全く普通の劇映画と違うが)。

どういうことか。
例えば「カンウォンドのチカラ」の主人公は不倫関係にあった大学講師のサングォンと教え子のジスク。

第一部はジスクが主人公で、第二部がサングォンなのだが、二人がそれぞれの友人と江原道(カンウォンド)に旅行に行くという反復構成になっている。

細かな凝った仕掛けがいくつもあり、二人が同じ列車に乗っていたシーンが第一部、第二部ともに違う角度から撮られたりする。

そう、同時期に行っていたという設定なのである。
「同時期に起こったことが違う人物の視点から語られる」ということがこの作品のキモで、観客は言わば神経衰弱か答え合わせをしているようなものだ。

通常の映画にある「起承転結」の代わりに「記憶による擦り合わせ」を持ち込んだのがホン・サンスの独自性の最も大きな点であろう。

第一部で林の中で突如金魚が現れるのだが、第二部でサングォンが大学で世話をしていた二匹の金魚のうち一匹が消えてしまう。

金魚は時空を乗り越えたのだ。

「オー!スジョン」も「同時期に起こったことが違う人物の視点から語られる」。
主人公は画廊のオーナー、ジェフンと構成作家のスジョン。
出会いから彼らが初めて愛を交わすまでを描く。

前半はジェフンの視点、後半はスジョンの視点から紡がれるのだが、今度はスクリーンに映し出されるのは二人のエピソードが中心だ。

その意味で「記憶による擦り合わせ」の頻度はかなり強くなるのだが、ここで面白いのは二人の行動や台詞が前半と後半でかなり違っていることだ。

これは二人(男女)の視点の違いを表しているようでもあるのだが、あまりに違っているので(例えば前半の飲み屋でのシーンでジェフンが店員に頼むのは箸なのだが、後半ではナプキンになっている等)、観客は自分の記憶を試されているような気分になる。

そのうち第二部の映画クルーの監督に対する態度が第一部のものと全然違うなど綻びが大きくなり、スジョンの視点のはずなのに、(スジョンが観ていないはずの)ジェフンが別の女とキスするシーンが挟み込まれるなど視点も混乱してくる。

そして、ジェフンはスジョンの名前を行為の途中で呼び間違え、2人の愛の行為というクライマックスに向かう。

アピチャッポンが「余白」のために二部構成にしているとしたら、ホン・サンスは「比較」のために二部構成にしている。

そしてそれは何のためかというと、「カンウォンド」の金魚のような越境、「オー!スジョン」のズレの増大、綻びをやるためだ。

それは機械仕掛けの運動を意識させ、主体(登場人物・観客・監督の3者とも)は消失し、パラレルワールドのような二つの世界だけが残る。

登場人物と観客の主体の消失ならばアピチャッポンもいくつかの作品でやっている。だがカメラが存在する以上、監督の主体を消すことは難しく、それをやり遂げたのがホン・サンスのポストモダン性の中で最も特異な点であろう。

そして、第一部は第二部の変奏なのだが、それと入れ子構造のようになって、ホン・サンスの作品全体も関連し合っている。

「オー!スジョン」は「カンウォンドのチカラ」の変奏である。
二部構成または三部構成、妻帯者の男と若い女、映画監督で大学教授の男と教え子、ホン・サンスの映画がいつもどこか似通っているのは新作が旧作の変奏だからである。

ホン・サンスの映画は観客の動体視力と記憶を試しながら「常に・その場で」生まれ続ける運動体なのである。

主体の消失はホン・サンスのオブセッションであるように思われる。
でなければ主人公の設定を少しずつ変えた「3人のアンヌ」(12)のような作品を作る欲望というのは理解しにくい。

主人公の同一性も第一部、第二部……と進むうちに失われるのだが、反復による差異、ズレがどんどん大きくなっていくうちに我々の記憶の同一性も失われ、それらがお互いに浸食し混乱していくのがサンス映画のエクスタシーであろう。

そして、今述べたようなサンス映画の特徴という大枠の他にも、個別の楽しさ・美しさが詰まっている二作品でもある。

旅の解放感、変わる景色ととめどもない性の放埓が詰まった「カンウォンドのチカラ」。

「オー!スジョン」は、ジェフンが主人公の前半は、スジョンが処女だと知って喜ぶなど、男の好色なステロタイプが目立つ。

「男女の視点の違いが暴く真実」が表向きの趣向なのだろうが、後半になり次第に周りの男性からの性的搾取もやんわりと受け流すスジョンのしたたかさが透けて見えてきたりもする。

そしてモノクロームの画の美しさ。断章形式の詩情。

ホン・サンスは「気まぐれな唇」(17)からは数十頁の筋書きしか使わなくなり、「教授とわたし、そして映画」(10)以後はシナリオを全く用意しなくなった。

最近はよりミニマムな方向に進んでいる。

この二作品は緻密に脚本を練り上げていた頃の作品だ。
少し狂気を感じさせるほどの緻密さ、計算された中のマジックリアリズムなど、以降の作品には見られない美点が眩しい。

サンス映画を観るという行為は、ストレートに性の欲望を喚起する部分があるが、それは恋する男女しか描かないから、濡れ場が出てくるからというわけではない。

主体の消失という強い享楽が、我々を最も根源的なエロスへと誘うからである。


「作家主義 ホン・サンス」公式サイト

大阪シネ・ヌーヴォ 9月18日(土)よりロードショー
下高井戸シネマ 9月25日(土)~29日(水)公開
横浜シネマリン 近日公開

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カンウォンドのチカラ

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オー!スジョン


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