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佐藤結
彼女と出会うことで、
ほんのひととき、救われる
初めて見た時から、ホン・サンス監督の映画は大好きではあったけれど、ここまで心を動かされたのは初めてだった。
この映画のすべての瞬間が美しく、愛おしい。
長くアメリカ暮らしを続け、久しぶりに韓国に戻ってきたサンオク。
妹ジョンオクの家に身を寄せている彼女は川沿いのカフェで一緒に朝食をとりながらアメリカでの生活について語る。
その後、ジョンオクの息子である甥のスンウォンから思いがけないプレゼントをもらい、喜びの気持ちに浸りながら、映画監督ジェウォンとの待ち合わせ場所に向かうサンオク。
かつて俳優だった彼女に、ジェウォンは一緒に映画を作らないかと誘う。
ホン・サンスの作品を見ていると、彼が作ったすべての映画に出てくる人たちが同じ世界に住んでいるように感じられ、「隣の街に行けば、あの映画の人たちと会えるかも」と考えてしまうことがある。
中でも昨年、相次いで作られた「イントロダクション」と「あなたの顔の前に」は、まるで1本のように緩やかに重なり合う。
そう感じてしまう最も大きな原因は、主人公の妹ジョンオク役のチョ・ユニと、息子スンウォン役のシン・ソクホが、「イントロダクション」に続いて母子を演じていることだろう。
特にスンウォンは「イントロダクション」の主人公ヨンホのその後の姿のようにも見え、「あの後、彼はトッポギ屋さんを開いたのか」などと、想像してしまう(未見の方はぜひ、今作と合わせてご覧いただきたい)。
さらに彼は、三度の抱擁が強い印象を残す「イントロダクション」の続きであるかのように、伯母であるサンオクを強く抱きしめる。
もちろん、公園や庭の木の美しい緑色が目に焼き付く「あなたの顔の前に」は、モノクロで撮られた「イントロダクション」とはまったく違う映画でもある。
ファーストシーンとラストシーンで、サンオクが着ているタンクトップの赤、日中の衣裳であるTシャツのピンク、網戸越しにとらえられる絵画のような住宅街など、これまでのホン・サンス作品では見たことがないのではと思えるほど、色彩が光輝いている。
そして、何よりも、サンオクに扮したイ・ヘヨンの圧倒的な存在。
60年代を代表する監督であるイ・マンヒの娘として知られ、自身も80年代から数多くの映画やドラマに出演しながら華やかなキャリアを築いてきた彼女が、トレードマークである、きつめのアイラインはおろか、化粧気のまったくない顔で登場することに、まず、驚かされる。
独特の声やイントネーションは健在ながら、ある決意をもって帰国した女性の平凡でいて奇跡のような1日を、自然体であると同時に、長く俳優として過ごしてきたことを随所に感じさせる美しい身のこなしで、見せていく。
「人生の終盤に差し掛かった女性」という、ホン・サンス映画における新たなキャラクターは、イ・ヘヨンという“顔”を得て、文句の付けようのないほどの説得力を獲得した。
「私の顔の前にある全ては神の恵みです。過去もなく明日もなく、今、この瞬間だけが天国なのです」という祈りを信じたいと切望しながら、故郷での日々を過ごす女性サンオク。
あふれんばかりの情報と未来への不安の中で溺れそうになりながら生きる私たちは、彼女と出会うことで、ほんのひととき、救われる。
監督・脚本・製作・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:イ・ヘヨン/チョ・ユニ/クォン・ヘヒョ/シン・ソクホ/キム・セビョク
2021年/韓国//85分
原題:당신 얼굴 앞에서 英題:In Front of Your Face
配給:ミモザフィルムズ
(c)2021 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved
【公式サイト】
6/24(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開