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佐藤結
イ・チャンドン監督の全作品を
理解するヒントが隠されている
43歳で小説家から映画監督に転身し、19年間で6本の作品を世に送り出してきたイ・チャンドン監督。
人生の本質が苦痛であることを見定めながら、それでもなお、その中にあるわずかな希望を探す彼の映画は、韓国はもちろん世界中の観客の心を揺さぶってきた。
「イ・チャンドン アイロニーの芸術」は、フランスのアラン・マザール監督がそんなイ・チャンドン監督の作品世界に迫るドキュメンタリーだ。
一人の男の人生を遡りながら韓国社会の20年を描いた名作「ペパーミント・キャンディー」(99)の構成に習い、最も新しい「バーニング 劇場版」(18)から始まってデビュー作の「グリーンフィッシュ」(97)に至る作品の背景について、イ・チャンドン監督自身が語っていく。
新型コロナウイルス感染症が世界的に猛威を奮っていた時期に制作されたためマザール監督は韓国を訪れることができず、リモートで対話をしながら撮影を進めていったという。
それぞれの作品のロケ地を訪れたイ・チャンドン監督が、カメラに向かって静かに語る言葉に耳を傾けていると、映画を見ているだけでは気づかなかった監督の意図が明確になっていく。
例えば、デビュー作「グリーンフィッシュ」について「初めてだったのでジャンル映画にしようと思った」ということ、また、「ペパーミント・キャンディー」は「ミレニアムを前に時間について考えていた」という監督が、未来について考えるために、過去を振り返る映画を作ったと、創作の動機を語る。
さらに、「ペパーミント・キャンディー」の冒頭とラストに登場する鉄橋の見える川辺を苦労しながら探したことや、韓国映画史に残る名場面となった、主人公ヨンホが電車の前に立ちはだかるシーンの撮影秘話を聞くと、すぐに映画を見返したくなる。
また、「ポエトリー アグネスの詩」(10)について語る中で口にした「映画には音楽的な要素がある」という発言や、「シークレット・サンシャイン」(07)で取り上げた“許し”というテーマが韓国人にとっていかに大きな意味を持つかについてのコメントには、個々の作品だけでなく、イ・チャンドン監督の全作品を理解するヒントが隠されている。
「バーニング 劇場版」のユ・アイン、「ポエトリー アグネスの詩」(10)のイ・デヴィッド、「シークレット・サンシャイン」(07)のチョン・ドヨンとソン・ガンホ、「オアシス」(02)、「ペパーミント・キャンディー」(99)のソル・ギョング、ムン・ソリ、「グリーンフィッシュ」(97)のムン・ソングンといった俳優たちによるコメントも貴重だ。
最初に書いたように、イ・チャンドンは映画監督である以前に小説家だった。
彼が92年に発表した小説集「鹿川は糞に塗れて」はフランスや中国で翻訳出版され、日本でもようやく7月28日に邦訳が発売された。
「イ・チャンドン アイロニーの芸術」の中でイ・チャンドンは、この小説集に収録された「鹿川は糞に塗れて」と「星あかり」というふたつの作品の舞台も訪れている。
「ペパーミント・キャンディー」が、人生の苦悩を知らない主人公ヨンホの初々しい姿で終わったように、「イ・チャンドン アイロニーの芸術」も、イ・チャンドンが人生の最も初期に目にした光景で幕を閉じる。
慶尚北道にある街・大邱。幼い頃に暮らしていたという家を見ると、彼がどんな視点から、この社会を見るようになったのかということが痛切に感じられる。
人生は苦しい。
そして、人はその苦さの中で、あるいは、そこから逃げ出そうとして、互いに醜い姿を見せ合ってしまう。
イ・チャンドンは小説で、映画で、そのことをずっと描き続けてきた。
このドキュメンタリーは、そんな彼の歩みを一本の線でつないでみせる。
見終わると、すっかり彼のことがわかったような気になってしまうが、その後で改めてイ・チャンドンの監督作を見直せば、きっとそこにまた別の問いかけを発見するはずだ。
イ・チャンドン レトロスペクティブ 4K
イ・チャンドン アイロニーの芸術
監督:アラン・マザールK
2022年/99分/フランス・韓国合作K
原題:Lee Chang-dong: The art of ironyK
配給:JAIHO
ⒸMOVIE DA PRODUCTIONS & PINEHOUSE FILM CO., LTD., 2022
8月25日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開