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相田冬二
かつてあったはずの髪のあたりに、 悲しみが溜まっている……
書評などの仕事でも知られ、A PEOPLEには映画に関して寄稿している女優の小橋めぐみ。「アメリカから来た少女」BOOKでは同作品のレビューも執筆した。「もう一度観たかった」という小橋に、映画批評家の相田冬二が「アメリカから来た少女」について聞いた。
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――小橋さんは、ご自分の体験や感覚に根ざして映画を捉え文章にされていますよね。映画にはいろいろなタイプがありますが、普段どのように映画に接していますか。
「エンタテインメントで、どこも一緒じゃない、自分とかけ離れたものは普通に楽しんでいます。『スパイダーマン』とか大好き。でも、やっぱりスパイダーマンになりたいな、と思っちゃうところはありますね(笑)。どこか自分に近づけているのかも」
――文章読んでいて思うのは、映画と距離が近い、ということです。
「この仕事を始める前から、映画を観るとき、画面の向こうに飛び込んでいきたい!というところはありましたね。本を読んでいてもそうなんです。本の中に入りたい!助けたい!みたいな。すぐ没入してしまう方で」
――本って、すごく距離感を縮められるじゃないですか。活字だけなので想像力も駆使できるし。本のように映画とも接しておられるのかもしれませんね。
「観て終わり、ではなく、書く、となると、演じる、に近いんですけど、脚本を何度も読むように、映画を何度も観て、自分の身体に染み込ませて、身体に入れ込んで、出てきたものを書く。書いているときは、他の映画は入れたくないし。すごく演じることに似ているなあって。染み込ませる、というのが。普段、読書が好きで、いろんな本を読んでいるんですが、ドラマとか映画とか入っているときは一冊も読みたくなくて。脚本だけ、で。他の物語を入れたくないんですね」
――ひょっとすると、映画を観るときも、集中して「一緒に創ってる」のかもしれませんね。
「自分が映画の一部になる……ような感覚は少しあります。『アメリカから来た少女』はすごく好きなのに、書きにくかった。なんでこんなに書きにくいんだろう、と思ったら、家族みんなの気持ちが(観ていて)入ってきちゃうから」
――お父さんも(笑)
「お父さんもすごくわかる。いつもなら、お父さんって距離感を持って見るのに、あのお父さんが家族がうまくいくように一生懸命なのがわかる。すごくいいですよね。お母さんが不在のとき、ケチャップ入りのチャーハンを作るんだけど、ケチャップ嫌いな妹は食べない。お父さんはそのことを知らずに怒る。あの怒る気持ちもわかるんです。でも、私も子供の頃、たまたま母が出かけていて、父が作ってくれた料理を不満たらたらで食べたことがあります。『今日、これを食べたくはなかった』とか言いながら。なので、どっちの気持ちもわかる。母と娘がぶつかるシーンも、どっちかが悪いとは思えない。どっちの気持ちもわかる。それで、視点が定まらなくなってしまいました」
――整理しにくい、ですよね。
「書いてはいませんが、全部の人物に惹かれていたんです。妹もいい味なんですよね。見つめてる目がいい。黙ってるときのお芝居もいいなって。子供っぽいのに、急に大人びたことも言う。でも、子供ってそうだよなって」
――どこか救いになっている妹以外の3人は、家族としての役割を上手く全うできてないんですよね。
「ひとつ屋根の下にいるから、摩擦が起きてしまう。それが不協和音になってしまう。主人公がまだ13歳という年代だからですよね。もし10年経っていたら、お母さんも娘も、お互いもっと優しくなれるのに。このお話には明かされていないことがあるじゃないですか。そこがすごく繊細で綺麗な映画だと思うんです。明かされていないから、全てはこちらの想像でしかなくて。でも、だから、余韻があるんです」
――家族だから見せられない部分ってあるじゃないですか。それを感じる映画ですよね。
「見せてないはずの部分が隠れてない、というか」
――ああ、隠し切れていないんですね。でも、隠し切れないから家族なのかもしれないですね。
「だから、見ていて、本物の家族みたいな気がしますね。ドキュメンタリーとはまた違う意味で、本当に、本物の家族の時間が映画の中に流れているような気がします。不思議です」
――この姉妹の関係については、どう思いますか。
「優しいお姉さんとしては描かれてないですよね。でも、冷たくもなくて。それがすごくいいなって。二人で水溜りのそばで座ってる場面は、あまり言葉にしなくても、二人の間だけでわかってる部分も感じられる。妹もね、あんまりお姉ちゃんに甘えてない。全部が自然です。撮影の本番で、『初めて』が起きている。台詞に聴こえるところが一個もないんです」
――確かに。脚本は推敲を重ねて18稿までいったそうですが、そもそも、この映画って、脚本があるような感じもしないですよね。
「是枝裕和監督の口伝えじゃないけれど、子供には脚本を渡していないような気がします。それくらい、その場で生まれたようなパッションがある」
――あと、監督の自伝的な作品なのに、重すぎないんです。
「お話は重いですよね。SARSも、癌も、ある。学校では体罰も」
――なのに、悲劇を過剰に描いたりもしない。
「不思議ですよね。しかも、映像も光をおさえている。太陽キラキラな場面なんて全然ないのに、重いな……この映画……と思うところがない。画面だけ見ていると重いのに」
――室内の多い映画ですよね。その室内も暗めで。2003年の台北が舞台。当時の台北は暗かったのかな、とも思いました。
「でも、今、日本でマンションに住んでいても、昼間、部屋で電気をつけていないと、このくらいの暗さですよ。たとえば、TVドラマは実際よりかなり明るい照明で撮影していますよね。リアルって、このぐらいなのですよね。ほんとはこのぐらいだよなって思えるから、お話が暗くは感じないのかもしれません」
――なるほど。そこが安心できるのかもしれませんね。
「作り物に見えない、っていうか。あと、外も、天気悪くはないんだけど……程度。だけど、風通しは悪くない。空気が止まっている感じはない」
――家族がぶつかり合うシーンもあるのに、閉塞感はないですね。
「家が広いわけでもないのに。どこかヌケ感があります」
――主人公は序盤で、校則によって髪を切ることになります。
「切りたくなかったのに切らなきゃいけない。お父さんは『切るくらいなんだ。すぐ伸びる』って感じなんだけど、彼女は本当に切りたくなかったと思うし、切ったことは本当に悲しかったと思うんですよね。あれも『最初の傷』。幾つになってもあるんですよ。以前、友人の女優さんに久しぶりに逢ったら、髪を切っていて。『あ、切ったんだ』って言ったら、『ほんとは切りたくなかったんだけど、役でどうしても切らなきゃいけなくて』と。かつてあったはずの髪のあたりに、悲しみが溜まっている……ように見えました。本当に切りたくなかったのだな、と彼女の悲しみが、言葉以上に伝わってきたことを思い出しました」
――あの「最初の傷」が、この家族の物語をよりナイーヴにしている気がします。
「家族って、同じことを憶えてそうなんだけど、実は憶えていなかった、というエピソードがありますよね。あれもリアルですよね。家族全員にとっての思い出の日もまた、あの日、晴れていたのか、雨だったのか、数年後には憶えていないのかもしれない。そんなことも思わせられます」
――そうそう。それもまた家族、と言いますか。
「孤独感も描かれていますよね。家族がいるのに、孤独。一人でいるわけじゃないのに、孤独。自分の命と向き合うのは、自分だけなんだ。普通にわかっていたはずなのに、急に目の当たりにする。身に迫ってくる。みんな、辛いとは言わないんですよ。不安でたまらない!とは言わない。孤独を家族にはぶつけないんです」
――ああ、だから愛おしくなるんですね。家族全員のことが。
「あと、部屋にあるお花が生花じゃなくて、たぶん、造花。だから、みずみずしい感じはしないんだけど、重くはない。不思議な残り方をする映画です」
――ありがとうございました。もう一度、この映画を見直したくなりました。
ロアン・フォンイー監督が来日!
「アメリカから来た少女」特別上映
ロアン・フォンイー監督トークショー
12月12日(月)18:30 ユーロスペース
*18:30より本編上映後、ロアン・フォンイー監督が登壇します。
発売:12月8日(木)
アメリカから来た少女
監督・脚本:ロアン・フォンイー
製作総指揮:トム・リン
撮影:ヨルゴス・バルサミス
出演:カリーナ・ラム/カイザー・チュアン/ケイトリン・ファン/オードリー・リン
2021年/台湾/101分
原題:美國女孩|英題:American Girl
©Splash Pictures Inc., Media Asia Film Production Ltd., JVR Music International Ltd., G.H.Y. Culture & Media (Singapore).
配給:A PEOPLE CINEMA
12月1日(木)まで上映中 フォーラム仙台(宮城)
12月10日(土)〜 上田映劇(長野)
12月23日(金)〜 Denkikan(熊本)
2023年1月6日(金)〜 アップリンク京都(京都)、伏見ミリオン座(愛知)、シネマイーラ(静岡)
1月7日(土)〜 シネ・ヌーヴォ(大阪)
1月公開予定 シアターキノ(北海道)