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相田冬二
その音響に、
映画館で出逢おう
「アメリカから来た少女」は極めて音響的な映画である。
監督の実体験をモチーフにしたストーリーはすがすがしいし、一家4人を演じるキャストは全員素晴らしい。光と反射をたおやかに内蔵させた撮影も、さり気なく要所を押さえたマッサージ力の高い音楽効果も、文句なしだ。
だが、物語も、演技も、映像も、楽曲も、すべては、観る者の想像力を無限に拡張し、わたしたちを【聴く者】に変えてしまう、密やかなダイナミズムに満ちた音響に貢献している。
飛行機が飛び去っていく音から、この映画ははじまる。
つづいて、空港と思われる場所のざわめき。
ここまでは画面に情報はない。
あくまでも音だけが全てで、この音に追随するように、映像が顔をのぞかせる。
空港で荷物を運ぶ、母とふたりの娘。3人の女性を、外の車で待っている男性がいる。
指笛。 その音が【彼方】に届き、この4人が家族であることがわかる。
冒頭わずか数分で、本作がいかに音響的な作品かご理解いただけるかと想う。
既に重要なことが3つも提示されている。
まず、音響が映像に先行すること。
次に、音がある種の【サイン=信号】になること。
そして、音が画面の【外】と行き交い、また【外】の世界を意識化させることである。
こうした音響の提示を、抽象性を一切漂わせず、あくまでも【普通】のホームドラマの枠内で展開していくことにこそ、ロアン・フォンイーという映画作家の野心がある。
とりわけ、指笛の使い方は絶妙で、全編にわたって横行し、決定的な【サイン=署名】となる。
山の話でも、森の話でもないのに、ここまで指笛が重要なファクターとなる映画は観たことがない。
一家の中で唯一の男性であるこの父親だけが指笛を鳴らす。
彼に懐いている長女は真似しようとするが上手くいかない。
そう、それは【継承】されない。
が、指笛は実に豊かな情景を創り上げる。
夕刻、ゴミを捨てるために、アパートの一階に降り立った長女(もちろんゴミ収集車が近づく音は、部屋の中のシーンで既に鳴り響いていた)。
通り過ぎる収集車にゴミ袋を投げ込み、やれやれ。
すると画面の外から指笛。【彼方】を見やると、父が自転車に乗ってやって来る。
少し前、長女は自転車をねだっていたのだーー。
心温まる場面だけに、音響演出の独自性は見過ごされる可能性もある。
が、ゴミ収集車(うんざりするような日常)からの自転車(待ちに待った時間)への転換も見事な上に、ふたつの乗り物がいずれも音によって【来るべきもの】として示されている事実は、この新人監督の才能を証明する。
では、【来るべきもの】とは何か。
ロスから台湾へ。
母が乳がんとなったことで、主人公は母と妹と3人で故郷に帰還する。
そこには、一人暮らしをしている父親がいた。
アメリカでの生活に充足していた少女にとって台湾の暮らしは、あらゆる意味で不満。病によってイライラが募る母親との衝突は深刻度を増す。
少女には【アメリカの友人】がいる。
それは、乗馬仲間であり、馬そのものでもある。友達に逢いたい、馬に乗りたい、馬に逢いたいという満たされぬ主人公の想いは、馬でデコレーションされた彼女の部屋にも顕著だ。
馬こそが彼女にとってはアメリカなのだ。
その馬の名前はスプラッシュ。
なんという音響的な名前だろう!
この映画の音響が指し示すものは、【外】の世界であり、その音は【彼方】へと向かっている。
そして、【来るべきもの】でもある。
台湾の【外】、海の【彼方】、願いとしての【来るべきもの】。
つまり、音は、アメリカであり、馬である。
少女は、常にアメリカと馬を【聴いている】のだ。
この途方もない音響の冒険がどのような道すじを辿っていくかをここで記すことは慎まなければならない。
だが、物語や、演技や、映像や、音楽だけではわからないものが映画にはあることだけは断言したい。
彼女にとってのアメリカが、馬が、どのように出現するか。
このことに耳をすませていれば、あなたは必ずや映画の幕切れに驚くだろう。
それを【体感=発見】するのにふさわしい場所は、映画館だ。
「アメリカから来た少女」の音響に、劇場で出逢おう。
アメリカから来た少女
監督・脚本:ロアン・フォンイー
製作総指揮:トム・リン
撮影:ヨルゴス・バルサミス
出演:カリーナ・ラム/カイザー・チュアン/ケイトリン・ファン/オードリー・リン
2021年/台湾/101分
原題:美國女孩|英題:American Girl
©Splash Pictures Inc., Media Asia Film Production Ltd., JVR Music International Ltd., G.H.Y. Culture & Media (Singapore).
配給:A PEOPLE CINEMA
10月8日(土)よりユーロスペース(東京)にてロードショー