photo:星川洋助
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賀来タクト
「危ない話」のときも僕はゴジを誘ったんですよ。
一本、監督をやってよと。
――ディレクターズ・カンパニーは1982年6月に登記が済み、会社としてスタートしました。伴明さんは長谷川和彦さんから声をかけられて参加したと伺っておりますが、その頃のことは覚えていらっしゃいますでしょうか。
覚えていますよ。彼(長谷川)とは仕事を一緒にしたことはなかったけど、飲み屋で暴れているところに遭遇することはあったというような、そういう知り合いでした。場所はどこだったかは忘れましたけど、ディレカン構想を聞いたのも飲み屋だったと思います。「ついては参加してくれないか」という話でした。(時期的には)僕が「TATOO[刺青]あり」(1982年6月公開)を撮る前だったかな。あれ、1981年に撮っていますから。寒い時期だった覚えがあるから、1980年の暮れか、1981年に入ってすぐくらいかな。その頃には日活の相米慎二、根岸吉太郎、池田敏春あたりにはもう声がかかっているんだろうなとは思っていました。
――当時、伴明さんは髙橋プロ(1979年設立/磯村一路、福岡芳穂、水谷俊之、米田彰、周防正行らを抱えていた)をすでにお持ちでした。
僕がプロダクションを持っているということについては、ゴジ(長谷川和彦)の中ではあまり意識する問題ではなかったんじゃないかな。あの頃は、僕自身も助監督を中心に髙橋プロを作って、彼らをひとりずつ監督にしていこうという考えがあったわけですね。僕としては、ある約束事を守ってさえいれば、作り手の意志を尊重した作品を作っていきたいと。そのつもりで髙橋プロを作ったので、僕からするとディレカン構想というのはその延長にあるというか、もっと広げたフィールドにするという意図があると僕は(長谷川から)聞きました。そのときにゴジに言ったのは「俺はあんたの下に座ったことはない。あなたと上下関係にだけはならない。それを了承してくれれば参加する意志はある」と。髙橋プロは(自分がいなくなっても)若い衆が自分らで再編するなりして新しくやってくれればいいと思っていましたから。
――髙橋プロを維持しつつ、ディレクターズ・カンパニーに参加するという選択肢はなかったのでしょうか。
(ディレカンに参加する)メンバーを聞いたら、こりゃ両方を同時にやっていくことは無理だろうなと思いました。(ディレカンのメンバーは)そういうタマではない(笑)。それなら自分が髙橋プロを単独で出た方が、若い衆にもいいだろうと。もし髙橋プロに残ったら、きっと(ディレカンのメンバーから)なんだかんだ言われたでしょう(笑)。それも面倒くさいし、だったら若い衆には電話と場所だけを提供して自分は出ようと。髙橋プロは名称だけのグループで、会社として登記とかしていたわけではありませんから変な問題はなかったですし、若い衆とはきちんと話し合いましたよ。
――ディレクターズ・カンパニーは博報堂出身の宮坂進さんを社長に据えて、会社としてもきちんとした形で出発しています。そのあたりも伴明さんにとっては組織として新鮮に映られたのでしょうか。
それはありました。ただ、髙橋プロでも経営的なことを考えていましたから、言うほど新しい環境に飛び込むというような感じでもなかったかな。会社としてやろうというなら、そういう(宮坂のような)人間は必要でしたから。それよりも、自分の中ではフィールドが広がりそうなところが魅力的に見えたし、その頃は既に「TATOO[刺青]あり」(の製作)に入っていたのでね。僕は「一般映画」という表現は大嫌いなんですけれど、これからは(「TATOO[刺青]あり」のような)ピンク映画ではない映画ももっとやっていくことになるだろうな、と。もちろん、ピンクをやってもいいんだけど、ディレカンという会社、組織でやった方が(ピンク以外の作品を撮るにしても)やりやすいんじゃないか、と。そうあるべきだろうなとは思っていました。
――ご自身の中では「TATOO[刺青]あり」というピンク映画ではない映画を撮ろうとしていたタイミングもディレクターズ・カンパニーに参加するきっかけとして大きかったと。
そこのタイミングは大きかったです。今までとはちょっと違う映画作りの現場を持つことができるんだろうなということですね。それまで(のピンク映画で)は、監督だけでなくその他一切のことを全部、自分で運営していましたから。やっぱり、自分ひとりでやっていては手が回らない。それは実感していましたから。
――長谷川さんの「個人でやることには限界がある」という意見に沿う部分ですね。
ええ、そうなりますね。
――伴明さんの加入後、ディレカンの旗揚げ作品として〈ピンク!朱に染まれ〉と打ち出した中編新作3本立ての製作・興行が行われました。監督として立たれたのは伴明さん、宇崎竜童さん、泉谷しげるさんのお三方です。
正直な話、(ディレカンの立ち上げ当初は)なかなか企画がまとまらなくて、自分なんかはゴジが最初に作らなきゃいかんだろうと思っていたわけです。でも、いつまでたっても動こうとしないし、結果として、苦肉の策であの3本になったんです。だから、無理矢理ですよ。ゴジだけでなく、誰かが「俺がやる」と手を挙げていれば、ああいうことにはならなかった。そういう(3本立てをやろうなどという)意志なんて自分には最初なかったんです。あまりに企画が出てこないから、自分がそういうこと(プロデューサー的な立場でやること)になったけど。なんかやらなきゃいかんぞということでね。そもそも、あれだけのメンバーを集めておいて、なんで宇崎と泉谷を呼ばなきゃいけないの(笑)。
――3人目の監督は伴明さんが務められておりますけども。
せめてひとりは(ディレカンのメンバーが)入らなきゃいけないだろうということですよ。泉谷は(監督を)やりたがっていましたね。「作ってみたい」と言っていて。宇崎を連れてきたのは、やっぱり自分の中で音楽を作ることができる人は役者もできるし、映画も作ることができると思っていたんです。監督としての「技」の部分は(周りが)フォローすればいいんだと。当時よく自分が言っていたのは「監督なんて誰でもできるんだ」と。「けど、そうでもないところがあるんだけど」とも言っていましたけど(笑)。
――それにしても、〈ピンク!朱に染まれ〉で始まったディレカンというのは、なかなか異色のスタート切りましたね。
自分からしたら「恥ずかしい始まり」ですよ(笑)。「これじゃダメでしょ」と。そりゃ「なんとかしなきゃ」という空気は自分だけでなく、(そのほかのディレカンのメンバーにも)あったと思いますけどね。そうでなければ、あんな企画、普通は反対しますよ。心のどこかでは「なんでこれ(が最初)なの?」と思っていたはずです。
――伴明さんが監督をされた〈ピンク!朱に染まれ〉の一本「狼」には長谷川和彦さんがチョイ役で出演されていますね。
(肉体労働者の)斡旋役みたいな役でね。もちろん、僕が「出ろ」と言ったんです。あの〈ピンク!朱に染まれ〉というくくりは完全に後付けでね。それ以前に、低予算で3本撮るということが決まった中で「ゴジも入れ」と僕は言ったんです。「一本、監督として作れ」と。ゴジもそのつもりでいたんだけど、結局、ハマらない。できなかった。仕方がないから、自分が無理矢理「狼」(という3本の一本)をひねり出したんです。ゴジが「できない」って言うから。つまり、ゴジ、宇崎、泉谷という3人が当初のイメージだったの。これがゴジの尻拭いの始まりになりました。
――では、「監督やらないなら、せめて出てよ」みたいな出演依頼だったんですか。
そういうことです。(「狼」の中で長谷川の)顔はハッキリと映っていないけど、声でわかるでしょ(笑)。少なくとも、業界の人間ならわかるよね。
――ディレカンにおける伴明さんの監督作品は「DOOR」(1988)と、これまた3本立てのオムニバス映画の「危ない話」(1989/監督は井筒和幸、黒沢清、高橋伴明の3人)の2本となるのでしょうか。
あと、法務省から発注を受けた「蒼い季節風」(構成注:法務省保護局企画“社会を明るくする運動”広報映画「蒼い季節風」16ミリ・カラー作品/博報堂とディレカンの連名で脚本が法務省に提出されている)という映画も撮っていますね。教育映画みたいなものです。いわゆる「健全な映画」ですよ(笑)。内容は不良少年が立ち直るという話でね。家業の畳屋を継ぐの継がないのというもので、畳屋のオヤジ役で寺田農さんが出ていたのは覚えている(構成注:ほかに前田吟、藤田弓子らがキャスティングされている)。確か「DOOR」の後で撮ったと思います。
――「盆踊り」という映画の企画もあったと聞いています。
もとは金子正次の企画です。途中で(企画は)なくなってしまったけど、実はスタッフもキャストも組んで実景を撮り始めていたんですよ。でも、あるとき(金子の)奥さんの周りにいた「映画人気取りの連中」が、金子が残したままの台本でやらなければダメだって言い出しましてね。僕は結構(台本を)変えていたんです。でも、遺族側からそういうことを言われてしまうと、こっちも「そういうことは早く言ってよ」なんて言えませんから。主演は陣内孝則でした。一時は崔洋一もやろうとしていたんですよ。結局、因縁付きのシナリオになっちゃった。もうさわれないような企画というわけでもないと思うけど、なんだか、そんな感じですね。
――石井聰亙(岳龍)監督の「逆噴射家族」(1984)ではプロデュースを担っていらっしゃいます。あれはご自身で手を挙げられたのですか。
あれもゴジの尻拭い。もとはゴジがプロデューサーだったの。そうしたら、交通事故を起こしちゃったでしょ。それで僕が代わりにやることになったんです。
――最近、オリジナルのネガフィルムが発見されたという「DOOR」(来年2月、デジタルリマスター版が劇場公開予定)はディレクターズ・カンパニーの脚本公募から生まれた作品ですね。
そうです。(脚本を書いた)及川中はあれが最初の脚本だったと思います。公募に応募してきたシナリオはもちろんいっぱいあって、そのシナリオを前に、(ディレカンのメンバーの)みんなで何回も協議したんです。で、だんだん(入選作が)絞られてきたとき、短距離で映画化にこぎつけることができる企画としては「DOOR」はアリかなと僕自身は思っていましたね。予算の問題は大きかったですから。そのうちに「これ、誰がやる?」という話になってきて、そうなるとみんな、急に慎重になる。思うに、みんな失敗したくないんですよ。「台風クラブ」「東京上空いらっしゃいませ」なんかは、相米がひそかに「俺はこれで」と思っていたんじゃないかな。そうなると「DOOR」には手を挙げないよね(笑)。結果、「じゃ、俺がやろうか」となったんです。でも、この手のものは決して得意じゃないし、スプラッタ映画と呼ぶ人もいるでしょ? そういうのは初めてだったから、自分としてはどうなのかなと思いつつ、でもやらないと、みたいな感じで。僕、「会社のために」という意識が強いんです。ご奉公タイプなんですよね。なんとかしなくちゃ、って思ってしまう。こう見えて僕、人柄がいいんです(笑)。ほか(のディレカンのメンバー)にはそんな愛社精神、全くなかったから。ゴジは会社のために動いていたし、ある意味、強くあったんだけど、作品(を作ろうとする監督)としての責任を果たさなかったから。「やっぱり、監督という人種はこういうことなんだろうな」とつくづく思い知ったよね(笑)。一方で、そういうふうでなけれな、いい作品も残せないんだろうなって思うんですけどね。だから、(ほかのメンバーに対して)「この野郎!」みたいなことは思いませんでした。そのかわりに、自分が奉公人間だという認識が強まったんです。
――宮坂さんが経営的にご苦労されていたのも見て、伴明さんなりに感じていたこともあったのではないでしょうか。
もう宮坂も亡くなってしまったから言ってもいいんだろうけど、あるとき僕のツテでお金を引っ張ってこられそうなことがあったんです。仮に「スポンサーA」とすると、そのAが出した条件というのが「高橋伴明が(ディレカンの)取締役に加わるなら」でした。それがかなうなら、こちらは名前を出さないけどお金は出す、と。あの当時は「白子のり」がディレカンのメインスポンサーだったんです。そことの関係もあったせいか、宮坂は全部、自分でハンドリングするんだという考えがあったのかもしれない。別の出資先のアテがあったかもしれないけど、宮坂にそのAの話をしたら、結局、ナシになったんですよ。そのあと、ディレカンはどんどん経営的に下り坂になっていったんですけど、仕方がないですよね、社長の考えだったんだから。僕が役員になっても、やいのやいのと文句を言うことはなかったんだけどね。
――時期としてはいつ頃のお話だったのでしょうか。
「光る女」(1987)の頃かな。あれでずいぶん(経営的に)ガクンと来たから。で、「東方見聞録」(1992)のときに決定的なことになった感じがありましたね。やっぱり問題になってくるのはお金かと思いました。もう(ディレカンの後半期になってくると)村上修とか(本来の)メンバーではない監督を呼び始めたじゃないですか。気がついたら、知らない顔がいっぱい事務所にいだしたんですよ。で、これはちょっと方向が変わってきたな、と。だんだんいづらくなってきて、(ディレカンから)足が遠のいちゃったんです。事務所に行かなくなった。
――伴明さんとしては寂しくなかったですか。
うーん、仕方がないかなと。そりゃ、いろんなことが起こるよね。ディレカンって、(経営は)1992年の5月まで? じゃ、ちょうど10年か。後半の2年は(ディレカンが)何をやっているのか、わかっていなかったかもしれない。倒産は近い噂で聞きました。「東方見聞録」で(撮影中に事故で)犠牲者が出たじゃないですか。あのとき、宮坂から「こういうときはどうすればいいか」という相談を受けたことがあります。僕は仏教をやっていたので、その関係で聞かれたんですよ。要するに、供養の仕方です。「いろいろあるよ」と伝えましたけど。
――その頃はもう、伴明さんとしては会社を外から眺めている感じだったのでしょうか。
そうともいえるし、メンバーとは酒を呑んだりもしていたわけです。「東方見聞録」の事故があった頃、相米と呑んでいて、「お前は信仰があるからいいよな」って言われたことを今でもすごく覚えている。そのひと言がすごく印象に残っている。相米がなぜそんなことを言ったのか、わからない。聞かれて「なんで、そんなことを言うの?」って思ったもん。僕も「そうか?」としか答えなかったし。自分の病気でも予感していたのか。唐突に言い出すから、あいつは。脈絡なく言うんだよなぁ。
――倒産の流れの中にあるディレクターズ・カンパニーにあって、伴明さんから見て長谷川和彦さんはどのように映っていましたか。
ゴジには「連合赤軍」の企画がずっとあったじゃないですか。それが一旦なくなって、2度目に立ち上がったとき、僕はゴジに「俺、助監督でも何でもやるから」と言っていたの。で、ホン(脚本)を見たら、こんな分厚いもの(指で10cmくらいの幅をつくってみせる)になっていて。僕としても内容的にちょっとどうかなというところがあって、結局、実現しないまま、今日に至っているわけですね。ゴジとはディレカンがなくなっても、よく麻雀をしていましたよ。ゴジにも僕にもわだかまりみたいなものは全くなかった。いまだに盆と暮れにはやりとりがあるし。僕の(新作の)「夜明けまでバス停で」の劇場パンフレットにもコメントを寄せてくれてね。一応、褒めてはくれているんだけど、「でも、俺はこれより面白い映画を俺は撮る」って書いているんだよね(笑)。それが僕には嬉しかったな。「本当だな、この野郎」って思った(笑)。でも、よかったなって思った。
――恐らく、伴明さんは、ディレカン10年の間に提唱者の長谷川和彦さんが何も監督作品を残せなかったことに最も同情的な立場にあるような気がします。
言われてみれば、そうかもしれない。今、思い出したけど、「危ない話」のときも僕はゴジを誘ったんですよ。一本、監督をやってよと。ゴジには「連合赤軍」のほかに「禁煙法時代」という長編の企画があったんです。でも、それもハマらないということで頓挫してしまった。だったら、その「禁煙法時代」を短くしたものを「危ない話」でやってもらおうと。さすがに、そろそろ撮らないといかんでしょ、と。でも、やっぱりできなくて、仕方がないから「あの日にかえりたい」という(3話の一本を)僕が代わりに書いて撮ったんですけどね。〈ピンク!朱に染まれ〉の「狼」のときと同じです。ゴジの尻拭いですよ。「禁煙法時代」はあの(元の長編脚本の)まま撮っていたら、とんでもないバジェットがかかったはずだから、ちょっと無理だったんじゃないかなと思います。もしゴジが本気で「夜明けまでバス停で」よりも面白い映画を作ろうというのなら僕は助監督をやってもいい。「連合赤軍」をやるなら手伝うよと。
――ディレクターズ・カンパニーという組織は人によって景色が違うといいますか、「監督集団」と簡単に言う人もいれば、「監督派遣会社」と言う人までいます。
確かに、派遣会社みたいなところもあったね(笑)。でも、ディレカンというのは定義できない会社ですよ。だいたい愛社精神がなければ、そもそもまとまらない。そういうものを持っている人間がいなかった。ゴジにはあったと思うけどね。結果、つぶれちゃいましたけど、それなりに記憶に残る映画が何本か残りましたし、その点では(会社を)作った意義はあったんじゃないかなと思います。
――たとえば今回の「DOOR」復活上映についてはどのようにとらえていますか。
ついこの間、見直して思ったのは、あの時代にはちょっと早すぎた(内容)だったのかなということですね。逆に、今の時代でならそこそこ通用するかもしれない、とも思いました。なんにせよ、一度、消えていた作品だから。フィルムがどこにあるのか、ずっとわからなかったみたいですね。ネガが見つかって、(映画が)見たいときに見られることになって、個人的に嬉しいし、よかったなって。(製作に)かかわってくれた人たちも喜んでくれるんじゃないかなって思います。この間、「DOORⅡ TOKYO DIARY」(1991)も見直したんだけど、ほとんど(出ている人が)死んでいるんだよね。それがまずショックでした。趙方豪もそうだし、ジョー山中も山田辰夫、峰岸徹も大杉漣も。助監督をやってくれて、あのあと監督になった上野俊哉もそうだよね。ちょっと多い。呪われているのかな(笑)。もし彼らが生きていたら「もう一回、見ようよ」って言うことができたのにね。低予算を承知でやってくれたから、なおさらそう思いますね。
――個人的に思うのですが、あのディレクターズ・カンパニーに参加した監督の中で、伴明さんほど今日まで作品をコンスタントに、かつ数多く発表されてきた人っていないのではないですか。そのつぎに来るのが黒沢清さんだと思いますけれど。
僕、働き者なんです(笑)。働かなかった奴が(ディレカンには)いたからね。
――演出家の業に縛られていないところも大きい気がします。プロデューサー的見地も持たれていましたから。
それはそうなっちゃうものですよ。だって、僕は映画的に育ちが悪いですから。やっぱり、ピンクの現場って、演出だけをやっていても作品はできないんですよ。プロデューサー的なことはもちろん、製作部の「ペイ(支払い)」に関することもできないといけなくて。時には美術的なこともやるし、血のりなんてずいぶん自分で作りましたよ。そういうところで身についた感覚だと思います。演出的なことだけに特化できたら、それは幸せなことかもしれないけど、そんなぜいたくな世界にはいなかったから。そういう育ちの悪さが、いい方向で出ているのかもしれない。
――映画に関して経済観念がしっかり働いている、という見方も可能でしょうか。
それもあると思います。若松孝二にはかなわないけれど、(自分が若松プロに行っていたときは)見習うべきものだと思いながら眺めていましたね。
――その若松孝二さん絡みで申せば、「夜明けまでバス停で」という作品は非常に若松作品の要素や気分を持った映画として映ります。伴明さんはこの映画の製作動機の部分で「そろそろ怒ってもいいと思った」との旨を語っておられますが、若松さんも「怒り」を映画作りの原動力にされていたところがありますし、そもそも伴明さんは昔から怒りを持って映画を作ってこられた人です。決して今に始まったことではありません。
確かにずっと怒っていたんだけど(笑)、これ(「夜明けまでバス停で」)ほどわかりやすくは言っていなかったと思いますよ。で、難しい言葉をなるべく排除しました。たとえばで言うと「メタファー」なんて言葉は使っちゃいけないと思っている。万人に伝わるような言葉づかいと行動をとらないとダメだなって思い出したんです。
――確かに「夜明けまでバス停で」には若松孝二的匂いを感じつつ、若松孝二そのままではありません。変なアングラ感もありません。
若ちゃんの映画の場合、あそこに出てくる言葉は若ちゃんじゃないからね。周りの人間がああいう言葉を使うの。あとね、僕の場合、力が抜けました。全く力まなくなった。だから今、仕事をしていてもすっごく楽です。前作の「痛くない死に方」(2020)から力を入れなくなった。だから、楽しいんだよね、現場が。仕上げもやっていて楽しい。楽で楽しいんだから、こんないい仕事ないなって今更ながら思っています(笑)。昔は「これを伝えなきゃ」みたいな使命感とかありましたけどね。でも、疲れちゃうんだよね。
――「夜明けまでバス停で」の場合、もし昔の伴明さんが同じ題材を映画にしたら、主人公の女性を最後に殺してしまっていたかもしれません。で、残された柄本明さんがひとりで爆弾を破裂させていたかもしれない。
確かに、そうかもしれない(笑)。
――仏教的な感覚が働いたところもあったのでしょうか。
どうかなあ(笑)。でも、ひとつ仏教的なことを言うなら、「あるがままでいい」というか。それは道元が言っていた言葉だけど、そりゃそうだよなって思えますね。そういうものが「夜明けまでバス停で」にはあるかもしれませんね。
――「キネマ旬報」の1982年12月下旬号に掲載された記事を拝読しますと、ディレクターズ・カンパニーの発足にあたって、長谷川和彦さん、根岸吉太郎さん、宮坂進さんの3人とご一緒に座談会に出席されておりますね。そこに映っている伴明さんのお顔、ちょっと少年っぽい雰囲気があります。「ボン」という愛称にふさわしい感じがするのですが。
いやいや、違いますよ。僕の「ボン」は「ボンクラ」のボンだから(笑)。
「DOOR」
長谷川和彦とディレクターズ・カンパニー
国立映画アーカイブ 10月25日(火)〜30日(日)
「DOOR」
「DOOR」は東京国際映画祭、10月31日(月)15:25 TOHOシネマズシャンテスクリーン1にて上映 *高橋伴明のトークイベントあり
2023年2月、k's cinemaにてロードショー
「夜明けまでバス停で」
k's cinemaほかにて公開中