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賀来タクト
Four O’Clock in the Morning Courage
午前4時の勇気
問題作、といっていい。
ドラマをめぐる「共感」や「共鳴」とはほど遠い位置にある。観客に「同情」を乞うていない。作り手がそれを欲しがっていない。
物語は、部屋で虚空を見つめる主人公・渉(わたる/坂東龍太)のバストショットから始まる。
やがてアパートを出た渉は公園へ向かい、そこで知り合いの女性と会話を交わした後、幼なじみの英治(髙橋里恩)、光則(清水尚弥)と合流。街へと繰り出していく。
ほとんど何も語らず、うらぶれた態度の渉は「枝葉のこと」(2018)の隆太郎(二ノ宮隆太郎)、「お嬢ちゃん」(2019)のみのり(萩原みのり)に連なる二ノ宮隆太郎作品の定番的キャラクターだろう。
渉とつるむ幼なじみのふたりも、主人公やヒロインに蝿のようにまとわりつき、くだを巻き、罵詈雑言を重ねる二ノ宮作品のサブキャラクターに通じている。
主人公がひたすら歩き回ること、その結果、ほとんどが徒労の数日間を過ごしていくドラマ構成も、二ノ宮作品を見続けてきた観客にはおなじみの風景だろう。
長回しの撮影手法も二ノ宮演出におけるお家芸のひとつである。
その意味では、従来の二ノ宮作品と同様の展開、感触を期待していいし、そのとおりになってもおかしくない。
しかし、この映画「若武者」(2024)は明らかにそれらとは異なる気分を醸し出した。
決定的に肌合いの異なる空気を生み出した。どういうことなのか。
まず、映像における対象の切り取り方が変化している。
スタンダードサイズの画面アスペクト比こそ二ノ宮の前作「逃げきれた夢」(2023)に準じているが、フレーミングが“正攻法”ではない。
具体的には、人物の顔、身体が画面上の隅に追いやられている。
時に、表情すら見切れてしまっているほどで、目立つのは人物以外の背景である。
画面の6~7割ほどを占める人物以外の情景は、映画でいえば基本的に「余白」であり、ドラマの流れ上、必要としない限り、そこまで映像に収めない。
実際、この二ノ宮作品においてもドラマは「映像の端に置かれた登場人物たち」によって進んでおり、背後の情景がなんらかの意味を呈することはほぼない。
熱心な観客の中にはそこに演出意図を探そうと奔走するだろうが、目に見えて明らかな理由は恐らく見いだせないだろう。
むしろ、大半の人間にとっては、ドラマの流れを断絶する「障害」になっていくのではないか。
結果、登場人物たちの感情についても徐々に「分断」が感じられ、観客の「疲弊」が始まるわけである。
連続性の回避、とでもいうべきだろうか。
ある種の「観客への突き放し」が意図的になされていたのだとしても、その意味するところは我々のあずかり知らぬところ。
ただただ憶測を重ねるしかない。
観客によっては、単に下手な自主映画を見るような感覚を招くだけなのではないか。
あるいは、写真機に馴れていない素人が焦点合わせに必死になるあまり、つい被写体をフレームの中心に置いてしまい、無駄な空間を生み出してしまうときの失敗に近い感覚を。
二ノ宮と岩永は下手になったのか。
初心者に戻ったのか。
まさか。
なぜ人物をフレームの中心からズラしたのか。
理由を探す根拠のひとつとなりそうなのが、撮影技師が前作までの主な二ノ宮の右腕だった四宮秀俊が外れ、岩永洋に代わっていることだろうか。
しかし、岩永がよく組んでいる今泉力哉作品を見渡しても、この「若武者」のようなフレーミングを見つけることは難しい。
独創を超えて暴走にも映る。
フレーミングだけではない。
長回しの手法がとられているとはいえ、映像的には切り返しを意識した画角取りも散見され、実際に切り返しのモンタージュが編集によって行われるわけだが、そこにも正攻法はない。
たとえば、河原を臨む道で英治が歩きタバコの男に絡む場面はどうか。
英治の顔をとらえながらも、タバコ男の顔にはなかなか切り替わらない。
英治はどんな顔の男に難癖をつけているのか、普通なら対峙した瞬間にその顔を明らかにするはずである。
しかし、二ノ宮はそうしない。
もどかしいほどの長い片方向の画が続いた後、ようやくタバコ男の顔を明らかにするのである。
独特のフレーミング、切り返しによる連続性の消失は、すなわち映像のドライブ感の喪失にもつながる。
大多数の二ノ宮作品のファンは、世界のことごとくに諦めの気持ちを持ちながらも、一方で怒りをにじませる男(もしくはヒロイン)の「闊歩」に一種の高揚感を抱いてきたはずであろう。
彼らによるどうしようもない現実への怒りの爆発に痛快を感じていたのではないか。
“痛快”の喪失ということでいえば、実は前作「逃げきれた夢」の主人公の顛末に近いともいえる。
ただ、それでも怒りの発露は別の人間、具体的には吉本実憂演じる平賀南なる元女子高校生に託されており、「若武者」でも渉は怒りを隠していない。
軸はブレていないのである。
本質的に二ノ宮作品の“行動原理”に揺らぎはない。
ただ、手法が変わった。
登場人物たちの背景、すなわち職業や家庭環境などは例によって説明が少ない。
いや、過去作品以上に何もかもが不明である。
たとえば、渉が工場勤務であることなど販促チラシや公式サイトにでも目を通さないとわからない。
出勤風景など一度も出てこない。
まして、父親(豊原功補)との確執の背景などは暗中の黒猫である。
あるいは、幼なじみとの町の“練り歩き”が“世直し”と称した活動の一環であることなど完成映像からだけでは知るよしもない。
主人公以上に映画そのものが途方もなく無口なのだ。
親切な説明があるとすれば、3人の男たちをつなぐ理由が親友の死にあると想像させるお墓参りの場面くらいだろう。
ただ、それについても詳細は不明で、3人の絆が今も続いている理由がわからない。
だから、余計に手法の変化による応対に観客はなかなか対処できない。
ここまでこの「若武者」語り口、手法を振り返って浮かび上がるのは、いかに現代には説明に満ち満ちた映画が多いかということでもある。
利便性第一の映像処理、観客へのケアを懇切丁寧に行おうとするドラマ構成、そして共感を強く意識したキャラクター造型。
それらに悪態をつきながらも、いつの間にか無自覚でその“慣習”に染まっている観客もまた実のところ少なくない。
偏っているのは、我々観客なのではないか。
似たような“快感”を繰り返し求めているだけではないのか。
“おかわり”をねだっているだけではないのか。
しかし、二ノ宮隆太郎は繰り返しを避けようとしている。
危険を察知している。
作家・加藤周一の言葉を借りるなら「しかし、それだけではない」のだ。
映画はそんな一面的なものではない。
二ノ宮隆太郎の「若武者」は、一種の痴呆にも陥っている現代人の「気持ちいいことだけに拘泥してしまっている」異常を鋭く撃ち抜いている。
ここに「こうであった方がわかりやすい」「こうであった方が気持ちよくみてもらえる」というような甘えはない。
そんな“迎合”から遠い。
裏返せば、それほど厳しい覚悟に貫かれた作品といえる。
二ノ宮隆太郎は自身を“壊す”ことを恐れない。
たとえば、長編第2作「枝葉のこと」などは自身を主人公に据えて“人間のリアル”をフィクションの形で追い求めた結果の完成形であった。
「お嬢ちゃん」は別人格(女性)を主人公に変えることで“リアル”の可能性を探った。
それを踏まえての光石研を配した「逃げきれた夢」では手持ち&長回し一辺倒の作風を見直し、さらなる“リアル”の醍醐味に到達点でもあった。
その意味では、今回の「若武者」は「お嬢ちゃん」以前の長回し感覚に立ち返りつつ、自身の作風へのフレーミングとモンタージュに一石を投じた。
それこそ「枝葉のこと」や「逃げきれた夢」の成功に連なるスタイルを重ねれば同様の成功も望まれたかもしれない。
しかし、この作家はそこに安住しなかった。
できるかぎり、自身を捨てようとした。その勇気に感動する。
ピーター・ウィアー監督の映画「モスキート・コースト」(1986)における主人公、アリー・フォックス(ハリソン・フォード)の台詞を借りるなら「午前4時の勇気」だろう。
二ノ宮隆太郎もジャングルに踏み込んだのだ。
振り上げられた日本刀は誰を斬ろうとしているのか。
口だけの“多様性”がはびこる時代において、映画「若武者」の切れ味はどこまでも鋭い。
若武者
監督・脚本:二ノ宮隆太郎
出演:坂東龍汰/髙橋里恩/清水尚弥
2024年/103分/日本
配給:コギトワークス
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ユーロスペースにて公開中 6月21日(金)よりStrangerにて公開 全国順次公開中