text
賀来タクト
Walking Distance
歩いて行ける距離
2024年6月現在、二ノ宮隆太郎の長編監督第2作にあたる映画「枝葉のこと」の評価は概ね固まっているといっていい。恐らく、劇場公開されている同監督の映画の中では最も好意的に受け止められている作品だろう。
実際、完成度もこれに準じている。
二ノ宮作品を理解する上で、一種の入門編的な位置に置いてもいいのではないか。
初心者はたぶんこの作品から入った方がわかりやすい。
二ノ宮隆太郎という才能が熱く迫ってくる。
紙に書かれた筆文字だけのぶっきらぼうなタイトルバック。
続いて現れるのは、二ノ宮自身が演じる主人公、その名も隆太郎。
作家としての受賞歴があるにもかかわらず、今はしがない場末の整備工員。
タバコをふかしていた彼は、ひとりの中年女性に向かって、やや小走りに歩き出す。
遠巻きに映される彼らが何を話しているのかはわからない。
取って返した隆太郎はそのまま自身が勤める自動車整備工場の中へ。
手を洗い、上着で拭うと、休憩室にいる同僚との会話もそこそこに、仕出し弁当を手にして外へ出る。
そんな導入で始まる物語は、この27歳設定の主人公・隆太郎が、しばらく疎遠になっていた友人の母親が肝臓ガンを患っていることを知るところから本格的に動き出す。
およそ7年ぶりの再会。母親同然に世話になってきた彼女の衰弱ぶりを目の当たりにし、ひそかに動揺する隆太郎、その苦悩と鬱屈の数日間が描かれていく。
カテゴライズをするなら、ブルーカラー青年の日常をスケッチした青春グラフィティ、となるだろうか。
もっとも、上記にある物語の流れ、状況設定などは映画を見ても判然としない。
公開当時、マスコミ向け試写でこの作品に初めて接した筆者などは、会場で配布された資料で初めて詳細を把握できた次第。
主人公同様、余計な無駄口をたたかないあたりがこの作品の第一の特徴である。
登場人物たちの会話自体はあふれるほど盛り込んでおきながら、わかりやすい説明など全くする気配がない。
結果、ドラマを「目で追う」ように設計されていることに我々は程なくして気づかされるわけだが、そのどこか無造作にして大胆な手法がかなえられている背景には無論、この物語が二ノ宮自身の体験を反映していることが大きくあるだろう。
加えて、それを二ノ宮本人が自演しているのである。
それまでに二ノ宮隆太郎が製作してきた短編「楽しんでほしい」(2011)、あるいは最初の長編「魅力の人間」(2012)を目にしている観客には明らかだろうが、この虚実入り交じる作劇こそ彼の骨頂であった。
自身を物語の軸に据えることで「人間のリアル」をあぶり出していったのだ。
その“実感”に裏打ちされた迫力はただごとではなく、隆太郎が向かうところ、たたずむところ、すべてで“作劇的ウソ”が吹き飛ばされていく。
ユニークなのは、特にドラマティックな状況描写があるわけではないところだろう。
むしろ、通常の劇映画なら避けるであろう“幕間”の情景で埋め尽くされている。
同僚との無駄話、着替え、ヒゲ剃り、飲み屋での不平不満。
どれもなければなくてもいい描写である。
でも、二ノ宮映画ではそれが生命線。
削除は許されない。
とりわけ、隆太郎が移動する場面=単なる歩きの描写が多用されている。
この主人公は乗り物で移動しない。行動範囲はすべて歩いて行けるところ。それどころか、車で向かっていた場所へも歩きを貫こうとする。
それがここでは異様なドライブ感、映像的推進力を生み出した。
「歩く芝居がいちばん難しい」と語ったのは俳優・柄本明だが、その理由は歩きにこそ役の素性、実体がにじみ出てしまうからにほかならない。
歩くことでリアルが試される。
二ノ宮もそれを承知だったのだろう。
自分に主演を配した時点で確信犯なのである。
決して見てくれのいいスタイルではない体躯も武器になる、と。
同時に、捨て身だった。
博打だった。
中心となる役を自分の経験、身体に委ねる気概、決意。
その無防備なまでの気迫に見る者は打ちのめされる。
圧倒される。
この作品をめぐって、北野武映画との比較を試みる声も多いが、当然だろう。
北野武も“歩き”に自覚的な演出家なのだから。
四宮秀俊を招いた撮影は基本、手持ちの長回し。
ほぼ自然光のみで撮られた映像のどこかむき出しのルックも、隆太郎の粗野な存在感にひと役買っている。
場の空気を細かいカット割りで削がなかった、もしくは温存したのは、二ノ宮にとってはそれを壊すかもしれないという恐怖から生まれた部分もあっただろうか。
自身から放たれる精神的かつ肉体的な“本物感”をまずは優先させた、生かすことに腐心した、ということだろう。
ほぼプロの演じ手で固められたドラマであるが、隆太郎の父親を演じているのは二ノ宮の実の父親である。
この構図は短編「楽しんでほしい」に続くもので、二ノ宮はあえてラストのクライマックスに父とのそれを再び持ってきた。
ある種の“対決”の場として。口数少なかった隆太郎は、父に対しては饒舌になる。
感情を抑えない。
その意味では、二ノ宮隆太郎という演出家は作劇を心得ている。
単に“実感”に甘えているわけではない。
ドラマと観客をつなぐギリギリの感情の接点がそこにはあった。
換言するなら、すべてに諦めていた人間のもがき、あがきがその一点に込められた。
母親同然だった女性の死を目前にして揺れていた男の感情のピークをそこに持ってきた。
りりしいゴールがある。
一種の“怒劇”ともいえるだろう。
ずっと抑えてきた怒りの感情を爆発させるまでの物語、と見ることもできる。
もっとも、無愛想な主人公が不平不満をまき散らしているだけの作品ではない。
それどころか、一見、なし崩しの即興に見える場面も、実は脚本上で周到な計算が施されているのである。
そう、二ノ宮はまず脚本を磨ききることで撮影に臨むタイプの演出家であった。
ハプニングに期待しない。
役者に寄りかからない。
その厳しさが映像の彼方に見えたとき、初めてこの映画のすごみを理解したことになるのではないか。
すなわち、この「枝葉のこと」は演出というものを考えるにふさわしい映画なのである。
二ノ宮自身が自ら主役を演じる作品は、現時点でこれが最後となっている。
次なる長編「お嬢ちゃん」(2018)では若い女性が主人公となり、「逃げきれた夢」(2023)では光石研というベテラン俳優に主演を預けた。
その意味では「枝葉のこと」は二ノ宮隆太郎自作自演映画の到達点にして集大成ともいえる。
裏返すなら、監督・二ノ宮隆太郎はもう俳優・二ノ宮隆太郎に甘えることをやめたのだといっていい。
二ノ宮隆太郎はこれからどこへ向かうのか。
どこまで歩いて行くことができるのか。
わからない。
だが、少なくとも立ち止まってはいない。
同じ場所で足踏みなどもしていない。
歩みをやめない映画作家は確かに前へ進んでいる。
*6月21日(金)、二ノ宮隆太郎監督最新作「若武者」のレビュー掲載を予定しています。
枝葉のこと
監督・脚本:二ノ宮隆太郎
出演:二ノ宮隆太郎/松本大樹/矢島康美
2017年/114分/日本
配給:九輪家
劇場公開日:2018年5月12日
©Kurinke
U-NEXTにて配信中