text
賀来タクト
“行き止まりの青春と死”を描いた
若き長谷川和彦
神代辰巳との「青春の蹉跌」は興行的にも批評的にも成功を収め、日活に長谷川和彦脚本×神代監督の再タッグ要請を出させるに至った。
「青春の蹉跌」が1974年6月29日公開、「宵待草」は同年12月28日公開。
「青春の蹉跌」完成直後に、長谷川は監督デビュー予定作「燃えるナナハン」の話が立ち消え、1975年には日活を離れて「青春の殺人者」の準備に入る。
「宵待草」は日活への置き土産みたいな格好になったといえるだろうか。
物語が1時間近く経過する頃、憲兵に偽装した国彦(高岡健二)、しの(高橋洋子)、玄二(夏八木勲)が銀行強盗する場面が登場する。
ここに「濡れた荒野を走れ」の「強盗団の裏稼業を持つ警察」と同様の「反権力姿勢」を見るのはたやすい。
そもそも、大正期の反政府主義集団を題材にしている点ですでにその意志は明快なのだが、彼ら「ダムダム団」は資金調達と称して右翼の華族から令嬢をさらい、仲間にも手にかける。
自由を叫ぶ闘士も一歩間違えれば危険分子、という集団の姿に、長谷川が連合赤軍の姿を重ねていた可能性も考慮していい。
高岡健二演じる主人公は一種のノンポリ青年であり、帝大在学という設定も含め、長谷川自身の投影だろう。
政治も闘争も蚊帳の外、との冷めた気分がにじむ。
温泉宿の娼婦との場面では印象的な会話が出てくる。
国彦「もうすぐ死ぬんだ、俺は」
娼婦「いいじゃないか。人間、どうせ一度は死ぬんだ。それまでにやりたいことをやってさ」
国彦「やりたいけど、何にもできねえ、ときた」
脚本では国彦の台詞は「何をやりたいのか、自分でもよくわからんのだ」となっており、いずれにしても当時、日活の契約助監督であり、同時に体内被爆者でもあった長谷川の諦念が透けて見えるような言葉の響きである。
映画は後半、無政府主義集団と袂を分かった3人(国彦、しの、玄二)の逃避行が抒情的に描かれる。
「濡れた荒野を走れ」の精神病院脱走者と女子高校生が見せる当てどもない旅の変奏といっていい。
一種の「道行き」としてとらえるなら「青春の蹉跌」における司法学生とその教え子女性の雪山場面にも通じている。
同作では司法学生を生かしたい神代辰巳と死なせたい長谷川との間で悶着があったらしいが、長谷川は「宵待草」でも男どもを満州に船で逃しそうに見せかけて、最終的には生き延びさせない。
もっとも、それ以上に、高橋洋子のヒロインをめぐる三角関係の図が優先された可能性がある。
同関係図に、ロベール・アンリコ監督作「冒険者たち」やジョージ・ロイ・ヒル監督作「明日に向って撃て!」の同時代的類似を見る観客も多いだろう。
ニューシネマ的な青春の気分を、恐らく長谷川は嫌っていない。
映画の題名にもなっている竹久夢二作詞、多忠亮作曲の大正期流行歌《宵待草》は、脚本上でもその歌詞が数度、出てくる。
それ以上にドラマの背景でしつこく歌わせているのは神代の趣向。
東北の駅や砂浜で3人がでんぐり返しを延々と続けるくだりも脚本にはない。
でんぐり返しは「青春の蹉跌」に続き、神代のお家芸だ。
性的衝動を覚えると頭痛を発するという主人公の設定は脚本どおり。
だが、それをロマンティックな「青春筆おろし顛末記」的な構成に変えたのも神代。
脚本上では、国彦としのは早い段階で結ばれている。
ラスト。
映画は待ちぼうけのヒロインのでんぐり返しでジ・エンド。
一方、脚本では要人殺害を決行する玄二の姿に菊の花びらが舞い重なって決着。
ロマンポルノの同僚と作った一般映画2本で「行き止まりの青春と死」を描いた若き長谷川は、監督として「死のない青春像」を描くために新たな海へと船出するのだった。
長谷川和彦 革命的映画術
主催・運営 パブリックアーツ
企画・宣伝 A PEOPLE CINEMA
7月9日(土)より15日(金)まで 渋谷 ユーロスペースにて公開
宵待草
監督:神代辰巳 脚本:長谷川和彦
出演:高橋洋子/高岡健二/夏八木勲
1974年製作/96分
配給:日活
「宵待草」は7月11日(月)、14日(木)、上映