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賀来タクト
迷宮気分がもたらす「やりっぱなし」の
風景に痛快を覚えるのではないか
物語は、地方都市における地盤沈下の現状を調査する測量士たちの姿から始まる。
そのうちのひとりが廃校の机の中から自分と同じ名前が書かれたノートを見つけると、そこから青い鳥を探す少年たちの物語へと移行。
一見、回想譚が始まったかと思いきや、次にその少年たちは測量士が昼寝をしている場所に現れ、測量機材にいたずらをしたりする。
同じ時代の別の場所の物語が並んでいただけだったのか。それにしては双方の関連が見えない。
それとも、どちらかが過去、もしくは未来図で、そのつながりが見えづらくなっているだけなのか。
はたまた、今流行りの並行世界の発想が絡んでいるのか。
判断も説明もつかない。 考えれば考えるほど、何が起きているのか、まったくわからない。
構造的には一種の「メビウスの輪」的な仕掛けが施されているといっていい。
出口なき物語はどうしたって観客側に時系列の混乱を引き起こす。
それを批評的興奮の対象として歓待する向きはさておき、一般観客にとってはその仕掛けに対してどう自由に戯れることができるか、それが試されている作品ともいえる。
とことん計算が尽くされた結果なのか、それとも感覚的にドラマ構造にねじれを持ち込んだだけなのか。
どうやらその両方っぽい脚本・監督のチウ・ションという若き監督は、新しい語り口を欲したがためにこの仕掛けを選んだ感が強い。
自身の愛読書であるフランツ・カフカの小説「城」の主人公(測量技師)を引き合いに出しているあたりにヒントが見え隠れする。
「常識」への反骨精神ともいえるが、同時に若気の至りでもあるのだろう。
まず「掛け合わせ」てみた。 だから、この迷宮感覚は本能的なものが招いた結果というよりも、たぶん、試行、戦術の方向に近い。
少なくとも、狂人がなせるものではない。
そこまでメチャクチャではない。 メチャクチャにできない「節度のブレーキ」も見え隠れする。その意味では、天才肌の仕事という感触はない。
だが、挑戦への気概、勇気は見て取れる。
一種の思春期映画としての輝きを感じる向きには、測量士たちの物語と比して、希望と諦念、夢と現実のドラマとしてこれを受け止められるだろう。
一方、物語のねじれに心が躍る観客は、迷宮気分がもたらす「やりっぱなし」の風景に痛快を覚えるのではないか。
カメラワークに目がとまる者もいるだろう。
なんでもないフィックス映像からスッとズームアップをしたり、そのまま別の人物へパンを行ったりして、カッティングとは別のモンタージュ変化を見せようとする。
チウ・ションはホン・サンス作品からの影響を語っているが、もちろん、ホン・サンスほどポップ感がそこに浮かび上がるわけでもない。
ここにも、物語に対する仕掛け同様の意志が見え隠れする。
個人的には、カメラワークに関してはホン・サンス作品の模倣というより、マーティン・スコセッシが初期に撮った短編作品に気分が近い。
もちろん、それにしては平板な印象、結果に終わっている感があり、同時にその「つたなさ」が初々しくもある。
映画をどうしたら魅力的なものにできるのか。 映画はどうやったら独自の生命観を宿すことができるのか。
チウ・ションが見せる「あがき」にも似た模索は、映画の仕上がり以上に刺激的な作家としての前向きな姿勢だろう。
感化されるべき資質は確かにここにある。
個人的には、青い鳥を探す子どもたちの風景に、ベルギーの作家メーテル・リンクの児童劇や詩作を勝手に連想するものである。
そのようなロマン、憧憬の片鱗が刻まれている、もしくはにじんでしまっていると思えるからこそ、若き監督の手法や変化球だけにきっと終わらないであろう今後の多様性に期待が募るところであった。
監督:チウ・ション
出演:メイソン・リー/ホアン・ルー/ゴン・ズーハン/ドン・ジン
2018年/中国/114分
配給:リアリーライクフィルムズ+ムービー・アクト・プロジェクト
3月18日(土)よりシアター・イメージフォーラム 他にて全国公開