©️Qiu Sheng
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賀来タクト
その楽園時代には実は憎しみや
嫉妬の種がすでに埋められている
――この映画は青年期の物語と少年期の物語が独特のつながり、ねじれ、凝ったコラージュの中に描かれていきます。現代と過去、現実と幻想の境目が見えないような部分もあります。いったい、この物語、構成はあなたの中からどのようにして誕生したのでしょう。直感的に発想されたのか、それとも念入りな計算の上で成立したものですか。
その両方です。脚本の段階では入念にストーリーを組み上げていきました。長い歴史を見るような、あるいは長い詩のような緻密な構成でしたね。しかし、一旦、撮影に入ったら、直感的な撮り方になっていったんです。編集の段階でも多くのシーンをカットして、ノンリニア的に自由な構成へと再構築する方向に向かった感じがありました。脚本段階では大人の時代と子どもの時代が4、5回、交錯するような構成でしたけど、編集段階でもっと観客が没入できるような形にしようと考えたんです。見る人が主人公の心情に呼応でき、なおかつ、長い夢の中でさまようような感じにと。そして、最終的にはその夢からさめるような構成にしたかった。
――ほかの監督なら少年時代だけで描こうとする題材だったかもしれません。でも、あなたはそこへ大人の目線、大人の時代から子どもの時代を眺める目を入れ込んだ。ある意味、大人の時代から少年時代を客観的に見つめようとする意志を感じます。もしくは夢想的な円環的話法へのこだわりの結果、青年期のパートが生かされたのかもしれませんが。
あなたのおっしゃるとおりです。僕にとって、大人の時代はこの作品にとって欠かせない眼差しでした。子ども時代をメタ的にとらえるために必要な要素だったからです。振り返る眼差しを子ども時代と交錯させることで、それが生まれるわけです。そして、そのふたつの時代は人間関係と空間の両面から対照的に映ることになります。生き生きとしたものが廃墟のようになったり、親密な子どもたちの関係性が大人になることで距離と緊張感のあるものに変わったりする。そういう対比が浮き彫りにされていくんです。
――あなたはこの映画について語るとき、チェコの小説家フランツ・カフカが1922年に著した小説「城」を引き合いに出されていますね。「城」に限らず、カフカの作品の主人公はほぼどの作品でも迷っていますが、この映画における青年時代というのはカフカの主人公のような位置にあるような気がします。さらに踏み込むなら、観客が青年時代の位置に立って少年時代を見るような形にしているのではないでしょうか。
カフカの小説はたくさん読んでいますし、とても影響を受けているのは事実です。「城」の主人公は城に入ることができずにいる測量士です。権威的なものに押さえ込まれた人間といえます。まさにその主人公と「郊外の鳥たち」の測量士は重なっています。測量士というのは常に上の人間に牽制されている状態にある人間で、いわば政治的に抑圧されている。運命を受け入れざるを得ない無力感をいだいているわけです。そこはカフカの小説の主人公からインスパイアされていると言わざるを得ません。
――この映画では少年時代への憧れとともに、少年時代に対する諦めといいますか、冷めている目線も感じられます。
「冷めた目線」というより、「矛盾した目線」で見つめ直しているのだと思います。子ども時代というのは楽園的といいますか、柔らかで明るいものであり、時代です。しかし、そこからはもう切り離されている現在の自分がいる。そして、その楽園時代には実は憎しみや嫉妬の種がすでに埋められている。僕が撮影、編集で意識したことは何かといえば、大人時代と子ども時代の心理的距離をどんな映画的言語で切り離せるかということでした。特に編集の段階では、あまり情緒的にならないように、日付のテキストを挟み込むことで「冷めた日記」のような記録の形で見せて、客観性を持たせるように意識しました。
――この映画で印象深いことのひとつに、登場人物たちが「眠り」にかかわることが多いことがあります。眠りによって大人と子ども、ふたつの時代がつながっているともいえるし、切り離されているともいえます。そこにはどんな機能を意識されたのでしょうか。
確かに「眠り」に関するシーンはたくさん出てきます。少年時代は明日へのワクワクがあるがゆえになかなか眠ることができない。一方、大人の時代では仕事中でも無自覚に眠ってしまう。それは一種の現実逃避です。明日を回避したがっている。同時に、眠ることで少年時代に回帰している。そうすることでしか少年時代にアクセスすることができない。そういう関係性があります。一方で、この映画の中で「眠り」にメタファーがあるとしたら、それは「ギャップ」でしょう。意識と無意識のギャップ。この映画にはいろいろなところで見る人にギャップを感じさせるはずです。物理的にいえば、大人時代における地盤沈下の現実もギャップであり、青年から少年に、逆に少年から青年に(場面や物語が)移るというのも時間のギャップです。ほかにも、抽象的なものと具体的なものとのギャップがあるわけで、それらを生かす演出的な方法として「眠り」を使ったのかもしれません。
――個人的には、夢と現実の対比にも「眠り」という機能を感じます。夢ということでは、あなたの国には荘子という高名な思想家がいますし、彼の説話のひとつに「胡蝶の夢」というものがあります。それもまたこの映画の大きな要素になっている節はありませんか。ある意味、カフカ以上に大きい影響を感じるのですが。
おっしゃるとおり、「胡蝶の夢」というのは夢の中の自分が現実なのか、現実が夢なのかを解いている説話です。確かに、同じことは僕の作品にもいえますね。大人の時代が子どもの時代を夢見ているのか、はたまたその逆なのか。さらには、子どもたちが「夢見る大人」なのかもしれない、という解釈もできます。
――この映画のいいところは、いろんな刺激や解釈を観客に与えることだと思います。一種の知的興奮があります。今の時代は説明ばかりでわかりやすいタイプの映画がはびこっていますね。そういう風潮に対する反骨精神もこの映画には隠されているのでしょうか。
そういう(わかりやすい説明がついた)映画というのは、見終わったあと、スッキリしますし、商業的にはいいことかもしれません。けれど、そういうタイプの映画はただ消費されるだけで、忘れ去られがちでしょう。僕の作る映画では、見た人が日常に戻ったとき、以前より観察力をもって物事に接してくれればいいなって思っています。だからこそ、映画の中に答えのない謎をちりばめていますし、感受性を刺激するようなディテールを描いています。明快な答えをもって世界にふれるより、疑問を抱えた形で世界と対峙する方が豊かだと思いませんか。
――そのようなお考えの監督にとって、今の中国映画界は作品を作る環境として障害は少ないのでしょうか。それとも、大変なのでしょうか。
僕らの世代でいうと、いい時代が少し前にありました。ビー・ガン監督が2015年に「凱里ブルース」を発表したときからコロナ禍が始まる直前の2019年くらいまでの映画環境というのは、僕ら若手世代の映画監督にとって明るい兆しが感じられた時期でした。しかし、コロナが蔓延して経済的なダメージが訪れると、映画館の閉鎖も影響して、事態は一変しました。僕も長編の脚本を書き終えたものの、それが今も映画化できずにいます。
――あなたのお好きなカフカは臨終の際に「自分の作品を全部、燃やしてくれ」と友人に頼んだといわれます。あなたなら人生の最後にどのようなことを話しますか。
カフカの発言を僕なりに解釈するなら、意地悪なジョークだと思っています。僕の意見を話すなら、物質的なものはいつか滅びてしまう。人間だって死ぬ。でも、映画という道を選んでしまった以上、自分が手がけた作品は自分より長く生きてほしいと願いますね。
――今日、監督のお顔を拝見していますと、どんなときもずっとポーカーフェイスですね。ニコリともなさりません。監督自身はどのような人間だと考えていらっしゃいますか。
よく友だちにもポーカーフェイスだと言われるんです。ポーカーフェイスどころか、少し機嫌が悪そうに見えるって言われることもあって(笑←本日、初めて見せる笑顔)。でも、そんなことはないんですよ。新しい友だちをつくることも歓迎しますし、こう見えて酒飲みなんです。お酒を飲めば映画についてもいろいろ語ります。でも、そういう部分が表情にあまり出ない人間なんでしょうね。
「郊外の鳥たち」
監督:チウ・ション
出演:メイソン・リー/ホアン・ルー/ゴン・ズーハン/ドン・ジン
2018年/中国/114分
配給:リアリーライクフィルムズ+ムービー・アクト・プロジェクト
3月18日(土)よりシアター・イメージフォーラム 他にて全国公開