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相田冬二
少女がいる。夏の風景、夏の気温、夏の匂い。
エリック・ロメールから岩井俊二まで。
映画史には【夏映画】という星たちが煌めいているが、ここに新たな星が加わり、星座のかたちはさらに広がりを見せることになった。
夏という季節は、他のどの季節より、【終わり】を大切にされている。
春の終わり、とは言わず、夏の始まりと言う。
晩秋もまた、どこか初冬に遠慮している趣がある。
冬の終わり、なんて聞いたことがない、ほとんど人は春の到来だけを待ちわびている。
夏が、夏だけが、その【終わり】を慈しまれている。
とりわけ子供の頃は、夏の【終わり】をかけがえのないものとして受容する回路が発達している。
この回路は、年齢を重ねるごとに、劣化していく。
なぜなら、大人には【夏休み】が(ほぼ)ないからである。
夏の【終わり】は、【夏休み】の存在によって、フィックスされていると言って過言ではない。
わたしたちは、【夏休み】によって、夏の【終わり】を知り、季節に対する慈しみも、時間というものの有限性も、学んだ。
この学びの記憶こそが、わたしたちの深層心理に【郷愁】という概念を植え付けたのだと考えられる。
実は【郷愁】とは、想い出によってかたちづくられるものではなく、風景やら気温やら匂いやらについての、ひそやかな【親近感】がもたらしているという真実を、この映画は教えてくれる。
夏の風景、夏の気温、夏の匂い。
わたしたちのこころは、そうしたものたちと仲良しだし、もっと仲良くなりたいと思っている。
少女がいる。
父親は、わけあって、彼女と彼女の弟を連れて、自分の父親が一人暮らしをしている実家に身を寄せる。
父親にとっては避難場所だが、子供たちにとっては【夏休み】の合宿場所のようなものだ。
祖父、父、姉、弟という家族の許に、父親の妹、つまり、子供たちにとっては叔母も転がり込んでこる。
彼女は夫と喧嘩したらしい。
祖父は、どうやら妻と死別したようだ。
父は、妻と離婚したようだ。
少女は、母を許していないようだから、離婚の原因は母にあるのだろう。
弟は、いまも母と会っているし、いまも母のことが好きだ。
つまり、5人全員、【欠落】がある。 失われたものを抱えながら、家族として、そこにいる。
老いているのは祖父ばかりでなく、二階建ての家屋もまた老いている。
老いと、喪失、そして、夏の【終わり】。
これらが【三重奏】を繰り広げることで、映画ならではの情感がわきたつ。
奇を衒ったところはないし、極端な長回しもない。
どこまでもナチュラルに、スケッチ風の描写が積み重ねられていく。
父と叔母は仲が良いが、実は叔母は抱えているものがある。
少女と弟は喧嘩ばかりしているが、実は仲が良い。
ボケているのか、いないのか、祖父はただ微笑んでいる。
夏の家族は丹念に見つめられるが、【いま、ここ】にいないものたち(それは人間だけではなく、春や秋や冬もそうなのだろう)は、その内実が潔いまでに語られない。
だから、この映画は、ひとつの【シェルター】として機能している。
【夏休み】は【シェルター】だ。 あらかじめ【終わり】が決められた、長くて短い【シェルター】なのだ。
監督・脚本:ユン・ダンビ
出演:チェ・ジェンウン/ヤン・フンジェ
2019年/105分/韓国
原題:Moving On
配給:パンドラ
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2月27日(土)より 渋谷ユーロスペースにてロードショー
「夏時間」のユン・ダンビ監督が「没後20年 作家主義 相米慎二〜アジアが見た、その映像世界」オンライントークイベント(2月17日(木))に出演します。