text
相田冬二
彼女たちは、ことごとく彼の無表情を黙殺している
こころは、顔に映るだろうか?
わたしたちは、ひとのこころが、ひとの顔に映ると思っている。
より正確に言えば、顔はこころを映していてほしいと願っている。
自身は、己の本音が顔色と連結されることをどうにか回避しようとしながら、けれども、自分が興味を抱いている相手、もっと言えば、自分にとって大切な相手の心情は、そのひとの顔に反映していると信じたいのである。
にんげんの技量はひとりひとり違う。
外界と内面とをつなぐ社会的装置でもある顔面をどう取り扱うかは、そのひとの人生経験値でも変わってくるし、そもそもその経験を支えてきた固有の性格によるところが非常に大きい。
性格とは才能である。
性格こそが才能なのであって、それが優れていなければ、いくら能力を有していても発揮はされないし、その力は温存されたままになり、最悪の場合、永遠に眠りつづけることにもなるだろう。
ひとには誰しも、こうなりたい、という自分の像がある。
理想に近づける努力をするひともいるだろうし、自分はもうそうなっているからキープしつづけるだけだと思うひともいるだろう。
目標に向かって奮起するのも、現状に開き直るのも、抱いたイメージと自分自身を肯定するという意味ではなんら変わりはない。
この映画の主人公は、周囲(彼を知るひとも、そうでないひとも含めて)いわゆるクールと呼ばれる性質の人間だろう。
他人にどう思われるかなんてどうでもいい。
だからマイペースだし、一見、無表情にも映る。
自分の好奇心には忠実だから、不躾な視線もためらわない。
そこには確たる能動性や欲望があるが、それを恥ずかしいともやましいとも思わないから、顔つきはフラットなままだ。
若くして大学教授に上りつめたと思われる。
無論、知性は確かだろうし、論文は結果を出してはいるのだろう。
だが、彼のキャリアをはっきりかたちづくってきたのは、あの不遜と言いきってもいい態度である。
ある自負と共にある態度。
あの態度こそ、彼の性格の証明である。
明らかに相手を見下しながら、自説を淡々と強弁するシークエンスがある。
そこには同業者とのディスカッションもなければ、人間としてのコミュニケーションもない。
「わたしはわたしだ」。
そのテコでも動かぬ不動のプライドは、多かれ少なかれ、学者という生き物には欠かせない元素でもあるだろう。
このプライドが突出していたからこそ、いまの彼の社会的ポジションがあるとも言える。
彼の顔面の基本ベースは無表情にある。
だが注意深く見つめれば、その無表情は同性、すなわち男性に対しては効力を発揮するが(そのことは彼自身、心得ている)、異性=女性にはほとんど届いていないことをその都度、知っていくようなところがある。
同じ男になら、威嚇としても効果的な無表情を、おそらく女たちはほとんど知覚していない。
見てはいるかもしれないが、そのことから「圧」を感じるようなことは皆無だ。
つまり、女は、彼の無表情を結果的に、無意識のうちに無視している。
無表情? ただ単に、そういう顔なんじゃないの?
ひょっとしたら、彼女たちはそんなふうにしか、彼の顔面を捉えていないのかもしれない。
だが、彼はその無表情から降りようとはしない。
必死に抗っているのかもしれないし、もはや積み重ねてきた結果、顔面に張り付いてしまっているのかもしれない。
冒頭、女の子と目が合い、彼女の母親に嫌がられるという場面がある。
女の子のまなざしと、母親のまなざしは質の違うものだが、それを受けとめる主人公の無表情はほとんど変わらない。
ここから、彼の無表情が、女たちに黙殺される旅がはじまる。
かつてラブアフェアがあったという後輩。
食堂の主人。
そして茶屋の新しい主。
彼女たちはことごとく彼の無表情を黙殺している。
無表情に意味なんかない。
女たちの態度は、顔つきはにんげんが持つ性格の反映なのだというわたしの持論もことごとくなぎ倒していく。
心地よいほど、爽快に。
彼はどうやら中国人妻の尻に敷かれているようだ。
女に対しては弱腰というよりは、彼のプライドを「見ない」女性に縁があるのだろう。
だから、妻と離れ、ある意味、現世から遠く離れているとも言えるこの旅の過程でも、女たちは彼の無表情に目を向けないのである。
この映画は、すべてがプロローグのようでもあり、すべてがエピローグのようでもある。
特異、というより、ほとんど奇っ怪な構造なのだが、あえてクライマックスをあげるとすれば、茶屋の主が彼に「ある告白」をするくだりであろう。
その瞬間、時間が音もなく雪崩れていく。
そのとき、彼がどのような顔をしていたか、あなたは憶えているだろうか。
わたしはあえて映画を観直してはいないが、それは戸惑いと安堵がともにある表情だった。
惑いと安らぎは共棲できる──そのことを知り、驚くと同時に、和んでもいた。
もはや、その顔を憶えてはいないが、わたしのこころが受け取った感触は、フォルムは、確かに、いまこの胸にある。
ことによるとそれは、完璧なる無の表情だったのかもしれない。
文字通りゼロ地点にある無表情だからこそ、わたしが深層のうちに希求しているものが、あぶり出しのように浮かび上がったとも言える。
彼女と彼のあいだには何もなかった。
そのことは知っている。
だが、彼女の髪の匂いを嗅いだような気もするし、抱きしめて躰のテクスチャを腕に残したような気もする。
それは夢だからなのか。
彼女が幽霊かもしれないからなのか。
まぼろしの残り香。
まぼろしの弾力。
消失こそが出現を招き寄せるのだとしたら、男はどんなに女たちに無視されても、無表情であることを選択しつづけるだろう。
無表情とは、こころの無垢なキャンバスかもしれないから。
(映画「慶州(キョンジュ)ヒョンとユニ」パンフレットより 2019)
監督:チャン・リュル
出演:パク・ヘイル/シン・ミナ
2014年製作/145分/韓国
原題:Gyeongju
配給:A PEOPLE CINEMA