2008年の映画「イップ・マン 序章」をきっかけに、今では“ブルース・リーの師匠”という修飾語をつけなくとも、多くの人がイップ・マンの名を知るようになった。その後、2010年に「イップ・マン 葉問」、2015年に「イップ・マン 継承」と7年間に3作が作られる人気シリーズとなり、公開されるごとに前作以上のヒットを記録。中でも3作目は興行収入1億5千万米ドル超えという桁違いの成功を収めた。
この間シリーズとは関係なく、イップ・マンが主人公を務める作品が多く作られてきた。2013年にトニー・レオン主演のウォン・カーウァイ作品「グランド・マスター」をはじめ、ハーマン・ヤウ監督の「イップ・マン 誕生」や「イップ・マン 最終章」のようにシリーズ人気にあやかったと思われる邦題がつけられた作品もある。それは、誰もが彼の物語をもっと見たいと望み、活躍が期待されるヒーローとしてその名が深く浸透した証と言える。
そして、ついに「イップ・マン 完結」をもってシリーズが最後を迎えた。3作目までの原題は単純に「葉問」「〜2」「〜3」と番号が付けられていただけで、それぞれの副題は日本独自のものだったが、最終作は原題も「葉問4:完結篇」であり、紛れもなくシリーズの最終章であることがはっきり示されている。2019年11月27日、公開に先立って北京で開かれた記者会見でドニー・イェンは、シリーズ最後の作品であると共に、これが自分にとって最後のクンフー映画でもあると告げた。その1週間後に深圳で行われたプロモーションの席で「クンフー映画を撮らないことイコール、アクション映画に出ないということではありません」と言って、先の発表にがっかりしたファンを少しほっとさせた。それでも、ドニー・イェンのイップ・マンに会えるのはこれが最後。前作が日本で公開された2017年からは約3年ぶり、前作を凌ぐヒットを記録中の新作を見て「やはりドニーこそがイップ・マンだ」との思いを強くした。
物語の背景は1964年。妻に先立たれたイップ・マンは、思春期を迎え反抗的な次男チンに手を焼いている。折しも同級生を殴って退学を勧告され、香港での通学が厳しくなったチンをアメリカで学ばせようと思い立つ。ちょうど、サンフランシスコで道場を開いている弟子ブルース・リーから誘いがあり、息子の留学先の下見を第一の目的として、彼が送ってくれた航空券を手に渡米。訪米先で同胞が差別に苦しむ姿を目の当たりにした彼は、当地での戦いに臨む。
話が大きく動く端緒となる設定は、チンと同様に将来を心配した父からアメリカへ送られたという、ブルース・リー自身の経歴を彷彿させる。さらに、彼が’64年に出場した国際空手道大会を劇中で再現する際、一撃で相手を椅子に沈めるなど、実際に伝説となったブルース・リーのパフォーマンスを演じてみせ、臨場感を高めている。監督によれば、最終章にブルース・リーの存在は当然欠かせないと考えていたそうで、3作目に続いてブルースを演じたチャン・クォックワンが短い出番でイップ・マンと彼の深い繋がりを印象付けた。
映画では、大会の様子を客席から温かい目で見守るイップ・マンが映し出されるが、これは全くの創作だ。ただ、現地の中華総会の重鎮たちが、ブルースが西洋人に中国武術を教えていることを批判し、師であるイップ・マンに彼を諭すよう求めるエピソードは、同年ブルースがオークランドの華人街の武術家と、同じような理由から対決した実話を下敷きにしたと思われる。
このように虚構と事実が見事に紡がれたシリーズの一連がイップ・マンの伝記映画ではなく、あくまでも事実を基にしたフィクションだということは観客もよく知っている。それでも、彼の長男イップ・チュン(葉準)が映画のスーパーバイザーを務めており、3、4作目に登場する次男イップ・チン(葉正)も参加していることもあって、特に2作目公開後は描かれていることがどこまで本当なのかに高い関心が集まった。とは言え1935年が背景である1作目に登場した幼少の長男イップ・チュンは、14年後を描いた2作目でも全く成長していないし、実際には1936年生まれのイップ・チンが1959年の香港を舞台とした3作目では9歳で、5年後となる4作目でも15、6歳なのを見ただけでも、真偽を詮議することに意味などないとわかる。
いずれにせよ、そこに描かれたイップ・マンの姿はイップ・チュン曰く、かなり実像に近いものだという。争いを好まず、武術は人を傷つけるための手段ではないということを信条としていたイップ・マンの精神は映画にもよく表れている。彼が戦うのは、それがやむを得ないからだ。争いを避けようと努力しながら、最終的には理不尽な目に遭った仲間や同胞を助けるため敵に立ち向かう。1作目から空手の達人の日本軍人、イギリス人ボクサー、そしてマイク・タイソン(扮する地上げ屋)と戦ってきた彼は、完結篇では空手の優位を信じて疑わず中国武術を侮辱した米軍人と対決する。
こう書くと、作品を見たことのない人には、単に中国人を見下す悪の外国人と戦って、死闘の末に勝利を収めて溜飲を下げるというパターンに終始していると思われてしまうかもしれない。確かに、1作目を見た最初は“悪い日本人をやっつける”という構図が、ブルース・リーの「ドラゴン怒りの鉄拳」に似ていると感じた。だが、4作を通して、対戦のメインとなる相手がいつも悪い外国人というわけではなく、信義を異にする中国人武術家とも数多く戦ってきた。2作目のサモ・ハン・キンポーとの揺れる円卓での対決や、3作目のタイ人格闘家とのエレベーターでの戦い、我こそが正統の詠春拳伝承者と自負するマックス・チャン演じるチョン・ティンチとの決闘など、どれもアクションの醍醐味に満ちたウィルソン・イップ監督の面目躍如と言える、シリーズならではの名場面が揃う。完結篇でも、ガラスの円卓を挟んで対峙した中華総会のワン会長との緊迫感あふれる華麗な対決シーンに息を呑む。
ただし、ドニー・イェン演じるイップ・マンはただ相手を叩きのめして終わりではない。彼の心には常に家族の存在がある。訪米先で戦うのも、ワン会長の娘ルオナンが白人のクラスメートに暴力を振るわれたことがきっかけだ。自分と同じように妻に先立たれた会長と反抗的な年頃のルオナンに、自分と息子チンとのままならない関係を重ね合わせるイップ・マン。父から武術を学ぶ夢を否定されて不満を募らせるチンの、自分亡き後の将来を案じつつ、滞在先から香港の家に毎晩電話をかける父親としての思いが胸に迫る。偉大な武術家としての強い面だけでなく、良き家庭人である彼の人間的な部分こそが幅広い観客の心を掴んだ。シリーズは終わりを告げても、美しいタイルの床が彩る香港の家で、中国服に身を包み黙々と木人樁に向かう彼のストイックな姿は永遠に脳裏に刻まれ、これからも消え去ることはないだろう。
Written by : 小田 香
「イップ・マン 完結」
監督:ウィルソン・イップ アクション監督:ユエン・ウーピン
製作:レイモンド・ウォン 音楽:川井憲次
出演:ドニー・イェン/ウー・ユエ/ヴァネス・ウー/チャン・クォックワン
2019年/中国・香港
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7月3日(金)より新宿武蔵野館ほか全国順次公開