「ロングデイズ・ジャーニー この夜の涯てへ」に先立つこと3年。ビー・ガンの長編第1作「凱里ブルース」は、第2作よりはるかに老成している。この監督は、そのキャリアにおいて、明らかに逆行している。「凱里ブルース」を目の当たりにすると、「この夜の涯てへ」がいかに若々しかったかがわかる。おそらく世のシネフィルは、荒削りで無防備な第2作より、映画的な風格のある第1作に、より安堵するのではないか。あえて無粋な言い方をするが、鳴り物入りの新星として、わが国に紹介されたビー・ガンの真価を「この夜の涯てへ」では感じ得なかった人ほど、「凱里ブルース」には喝采を叫ぶと思う。
ワンカットの現実的な長さばかりが取り沙汰されるが、第2作が後半突如3Dとなってから、約60分ワンカットが続くのに対して、本作では40分程度に過ぎない。だが、長回しの体感としては、こちらのほうが長く感じるのではないか。 なぜなら、ここでは、乗り物の存在が大きいからである。車やバイク、そして歩行。カットは途切れるものの、列車も待ち受ける。だが、台詞には出てくる船はついに可視化されない。無論、空撮などもない。つまり、地面の上で周遊することこそが、ここでは持続しているのである。
第2作では飛翔もあったし、何よりも宇宙を志向している感覚があった。だが、ここではあくまでも、地上に留まることが選択されている。予算の問題ではない。コンセプトの定義、もっと言ってしまえば、映画作家の気分の落としどころが、「飛び立たないこと」にあった。
それは悲観ではない。逆だ。文字通り、この地に根を張って生きていこうとしているからこそ、人物は引力とともに存在している。
ある旅が描かれる。そこは第2作と変わらない。だが、もっとも異なるのは、路地に入り込んだカメラが、再び大通りに出くわすときの呼吸だ。揺れ。その衝撃に耐えかね、一瞬だけ映像が平面化する。ぶれながら、まっさらになる。そうして、もう一度、動き出す。
映像が移動しながら、一旦、死に直面し、また、よみがえる。そのような印象がある。こうしたシークエンスが、事故のように何度か生じている。 演出なのか、アクシデントなのか、わからない。わからないが、むしろ、そのことに希望を抱いた。
全世界的に、カルチャーは、これまでの形式を手離さずにはいられない情況にある。映画も例外ではない。だが、「凱里ブルース」を観ていると思う。映画は何度でもよみがえる。その歩行を継続する方法は必ずある。自由な「この夜の涯てへ」より、不自由な「凱里ブルース」がいま、より、わたしたちに勇気を与えてくれる。映画は、出逢いだ。タイミングだ。
Written by : 相田冬二
「凱里ブルース」
監督・脚本:ビー・ガン
出演:チェン・ヨンゾン/ヅァオ・ダクィン/ルオ・フェイヤン
2015年/中国
6月6日(土)より シアター・イメージフォーラムにてロードショー 全国順次公開
期間限定のオンライン映画館「リビングルームシアター」(リアリーライクフィルムズ)でも同時上映
リビングルームシアター
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