先日公開された岩井俊二監督の新作「ラストレター」を劇場で見て、ああそうだった、こういう話だったと思い出した。ちょうど1年前に中国版の同作である「你好、之華」(日本公開タイトル「ティファの手紙」)を見ていたためだ。開巻の渓谷の風景こそ全く見知らぬものではあったが、いわばリメイクで、しかも自著を同じ人物が監督しているのだから、同じストーリーに同じセリフ、似たカットが描かれるのは当然だ。だからと言って、両者が同一作品であろうはずはなく、両者を比較する必要などないと思いつつも、次はこうなる、この設定は少し違っている、なぜここは変えたのだろうといったことを、ついつい考えてしまっていた。
仙台に暮らす主婦・裕里は姉・未咲の葬儀の後、姉の娘である鮎美から姉宛の同窓会の通知を渡されて、会場に足を運ぶ。その席で未咲と間違われ、妹であることを言い出せないまま、挨拶だけして会場を後にした裕里を、姉を好きだった乙坂鏡史郎が追ってきて、バス停で二人は連絡先を交換する。現代のことだから、その方法は簡単に互いのスマホのプロフィールを読み取るだけで、普通であればSNSで連絡を取るはずが、ここで手紙を書かざるを得ない状況が作り出される。裕里は初恋の相手である鏡史郎に、未咲の名をかたって住所を知らせずに手紙を書き、鏡史郎は卒業アルバムに載っている、彼女の白石市の実家に宛てて返事を出す。実家では鮎美と裕里の娘・颯香が夏休みを過ごしていて、鏡史郎からの手紙に対して娘たちもまた未咲になりすまして返信する。
双子がそっくりであっても同じ人間ではないように、同じストーリーの両作はよく似た双子のようでありながら別物で、ある意味「你好、之華」は「ラストレター」を撮るための習作だったと言っても良さそうだ。まず、緑が美しい夏の仙台と、陽の光がうっすらと差す冬の大連とでは季節や風景が違う。何より監督と土地、俳優との距離感が大きく異なっている。大連は監督の母親の出生地という縁はあるものの、故郷である仙台とは感覚も全く違うだろうし、旧知の俳優たちと組む場合とも大きく差があるはずだ。
それは観客と作品との距離感でもある。「ラストレター」ではまず裕里役の松たか子の自在な演技や、監督の俳優(特に颯香と裕里の少女時代を演じた森七菜)に寄せる思いの深さに惹きつけられる。もちろん「你好、之華」のジョウ・シュン(周迅)とチン・ハオ(秦昊)をはじめとする出演者の存在感や、大連の独特の空気も印象に残った。ただ、「ラストレター」がもたらすような感情は得難い。何と言っても豊川悦司と中山美穂の存在が大きい。スクリーンに現れた彼らに思わず息を呑んだ。二人が演じたのは、未咲の人生を壊した男で鮎美の父である阿藤と、臨月の腹を抱えて場末のアパートで彼と暮らす女・サカエ。かつて「Love Letter」で見せた瑞々しい姿はそこにはなく、それが演技者としての彼らの潔さと捉えられなくはないにしても、歳月の残酷さを突きつけられた気がした。もしかすると、これは「Love Letter」の幻想から覚めよという監督からのメッセージなのだろうか。
人によってはこの作品に温かさや優しさ、懐かしさや切なさなどを見て取るのかもしれない。だが、岩井監督と同世代の私が感じたのは、輝く未来はもうないのだと悟った、老いを意識し始めた者の諦念と哀切だ。阿藤が言う「何かになりたかった俺は、自らを何者でもない存在にしたんだ」という言葉が胸を衝く。「你好、之華」では阿藤にあたる男がどんな背景を持った人物なのか、姉とどのようにして出会ったのかが本人の口から語られるが、阿藤はそれについて話すことはない。ただそこにいるだけで、彼が多くを語ることを岩井監督は求めていない。それが監督と俳優の関係の深さ、そして観客との距離の近さを表している。タイトル通り最後の手紙のような作品を送り出した今、次は老いの先で見つけたものを描いてみせてほしい。
Written by : 小田 香
*「ティファの手紙」(岩井俊二・監督)は今秋公開予定
「ラストレター」
監督・脚本・編集:岩井俊二 原作:岩井俊二
出演:松たか子/広瀬すず/豊川悦司/中山美穂/神木隆之介/福山雅治
全国公開中
(c)2020「ラストレター」制作委員会