ホウ・シャオシェンが「戯夢人生」で、その実人生を映画化した布袋戯(ほていぎ)の大家、リー・ティエンルー。彼の愛すべき存在感は、他の同監督作品でもおなじみだ。このドキュメンタリーは、ティエンルーの長男で、やはり布袋戯の名手であるチェン・シーホァンの姿を追ったもので、ホウ・シャオシェンが監修を務め、劇中でインタビューにも答えている。ただ、本作においてティエンルーやホウ監督はあくまでも脇役。ここで見つめられているのは、父とは姓の異なるチェン・シーホァンが背負い、いまも解決していない「伝統芸能の継承」についてだ。
タイトルが説明しているように、布袋戯とは街頭で演じられる人形劇である。5本の指を駆使して、人形に人間以上の生命力を付与する。手を撮ってもよいか、と問うと、チェン・シーホァンは「隠してどうなる」と、あっさり、素の奥義を開陳する。映像にさらされた手とその動きは、何度か克明に記録されるが、それで何かが解明されるわけではない。秘められてきた技術はオープンになっても決して、真の意味では可視化されない。そもそもこの映画の監督は、そしてわたしたち観客は「なに」を見ようとしていたのだろう。逆説的に、そのような問いが浮かび上がるばかりである。
思うにこの映画は、いくら見つめても解き明かされることのない困難こそを主題としているのではないか。シーホァンは、父、そして布袋戯との複雑な関係を、語る。父とは姓が違うこと、父とは同じ姓の次男が父の劇団を継いだこと、布袋戯が衰退の一途を辿っていること、老いた彼の手がかつてのように十全な動きを果たせずにいることなどが、包み隠さずに述べられるが、このひとの真実が露呈するわけではない。
わたしたちはドキュメンタリーを凝視するとき、表現の秘密やら、人間性の覗き見やらを、どこか期待している。そうしたものを獲得したと錯覚することで、ひとつのカタルシスに辿り着く。だが、この映画は、物事は、人間と人間の関係性は、そのように単純なものではないことを、編み上げる。ある種の納得感を観客に与えることで、まやかしのゴールに駆け込むのではなく、たとえばわたしたちが生きている2019年は、「戯夢人生」が公開された四半世紀前よりはるかに過酷な現実に直面していることを、肌に体感させる。過去は描かれるが、それは郷愁を召喚するためではない。むしろノスタルジーを粉砕するために、過去は現代の前に立ちはだかっている。
もはや文化は、ただ継続しているだけでは、保護されない。とりわけ、チェン・シーホァンのような職人型の芸術家は、一度屈折した「個人的名誉」すら回復の機会が与えられない。恵まれないアルチザンに悲劇のパウダーさえ与えることなく、映画は彼の芸を、彼の逸話を要求する。彼は映画に応えた。だが、そのことによってチェン・シーホァンの人生が救済されるわけではない。布袋戯の未来が急速に拓けるわけでもない。それが映画というものの、残酷な本性でもある。そうしたありように直面する苦みもまた「台湾、街かどの人形劇」の魅惑に他ならない。
Written by : 相田冬二
監修:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)
監督:楊力州(ヤン・リージョウ)
出演:陳錫煌(チェン・シーホァン)
プロデュース:朱詩倩(チュー・シーチェン)、田欣樺(テェン・シンホァ)、黃丹琪(ホァン・ダンチー)
演出:朱詩鈺(チュー・シーユー)
2019年11月30日(土)よりユーロスペースほか全国順次公開
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