もしも映画というものがなかったら、ある国に対して持つイメージはいかに画一的なものになっていただろうか、と考えることがある。たとえば、イランであれば、アッバス・キアロスタミ監督の「ともだちのうちはどこ?」(87)に登場した少年やジャファル・パナヒ監督の「人生タクシー」(15)に乗り込んできたテヘランの人々の顔を思い出すことで、「核」や「石油」といった言葉と結びつけられることの多い国が、生身の人間たちが日々の営みを繰り返す場所へと変貌していく。ドキュメンタリー映画「少女は夜明けに夢をみる」を監督したメヘルダード・オスコウイは、イランに住む人たちでもなかなか足を踏み入れることのない場所へと私たちを招き入れる。
両手を真っ黒なインクに押し付け指紋をとられた後、更生施設の「隔離区域」へと入っていく少女。季節は冬。さぞかし過酷でつらい日々が彼女を待ち受けているのだろうと、見ているこちらも思わず身を固くしてしまう。しかし、次の瞬間、雪合戦に興じる少女たちの賑やかな歓声が聞こえ、まるで中学校か高校の休み時間に迷い込んだかのような錯覚を覚える。しかし、考えてみれば、そこにいるのは学校に通っていてもおかしくない年頃の少女ばかり。ひとつだけ違うのはそれぞれが何らかの罪を犯して、この施設に収容されているということだけだ。やがて、彼女たちはひとりずつカメラと向きあい、自分たちの人生を語っていく。
薬物中毒の父親とうつ病を患う母のもとで育ったハーテレは、宗教上の要職にある“おじさん”からから姉に続いて性的虐待を受けて家出し、放浪罪で逮捕された。強盗、売春、薬物使用の罪に問われている〈名なし〉は、12歳の時に叔父に性的虐待を受けて家出をした。ソマイエは母と姉と相談し、暴力をふるってばかりの父親を殺してしまった。逮捕された時に持っていたクスリのグラム数から〈651〉と呼ばれている少女もいる。
彼女たちが生きてきた環境はそれぞれにとても過酷なため、「自由を奪っている」はずのこの施設が同じ痛みを抱えている仲間たちと暮らす、一種の安全地帯となっていることがわかる。安全は心の平穏につながり、ほんの一時であっても、年齢相応の活力と笑顔を取り戻すことができているのではと感じる。この場所に来て「理不尽な環境に置かれているのは自分だけではない」と知ったことが、その後の人生を生きる上での力になれば、と願わずにはいられない。
映画の後半で、ひとりの少女が祈りのためにやってきた聖職者に向かって「男と女の命の重さはどうして違うのですか?」と問う。彼は「社会の平静を保つことが大切」というような、答えにならない答えを返すばかりだが、実は彼女の投げかけた真剣な問いは、遠く離れた国で“大人”として生きている私たちにも向けられている。そして、もちろん、私たちの住む社会にも、彼女たちと同じような問いかけを口にできないまま生きている多くの少女たちがいる。オスコウイ監督のようにひとりひとりと向き合い、その言葉に耳を傾けることが、はたしてできているだろうか。
Written by:佐藤 結
「少女は夜明けに夢をみる」
監督:メヘルダード・オスコウイ
11月2日(土)より岩波ホールほか全国順次ロードショー
11月2日(土)、3日(日)にはオスコウイ監督による舞台挨拶が予定されている。
© Oskouei Film Production
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