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CULTURE / MOVIE
自己の内面に眠るエロス
「第三夫人と髪飾り」

アイドル顔の現代の少女が、19世紀の北ベトナムの富豪の許に「第三夫人」として嫁ぐヒロインを体現する。この、倒錯的と言えばかなり倒錯的な「映画的現実」を実現させているのが、男性ではなく女性監督であるという点が二重三重に張り巡らされた、女性に対する視点の多重構造をまずは明るみにしている。本国ベトナムでは大きな批判がなされたという。おそらく……これは想像だが、もし本作が「抑圧された女性たち」を単に被害者的に扱う、よくある「社会派映画」だったとしたら、そのようなことは起きなかったのではないか。ここに登場する女たちは、ただ利用されている存在ではない。支配され、閉ざされた環境においても、自身の欲望を手ばなさない主体性が確固としてある。そして、その欲望の具現化を映画は、ただの美しさではなく、ありのままのエロスとして提示している。だから……安全圏内で「社会的正義」とやらに固執したい向きには、ある種「危険な映画」として見なされた可能性が非常に高い。

これは、かつてあった、そして、いまも別の国では継続されている一夫多妻制を否定するものではないと考えられる。そうではなく、そのような状況下で、女性がどのように生きるかを見つめることで、人物の個的なアイデンティティを問うているのである。 それは、わたしたちが通常思い描く愛からは隔離された過酷な空間において、人は自身の魂をどのように「生きのびさせるか」という闘いの記録でもある。倒錯的と評さざるをえないのは、闘いが、ともすれば優雅と錯覚しそうになるほど豊かな映像文体で綴られているからに他ならない。とりわけ最終盤の、言葉の介在しない、長い長いシークエンスは、主人公の心象のようでもあり、きわめて客観的なエピローグのようでもあり、没入と拒否が同時にあるような感覚で圧倒された。ありきたりの理解を超越した地点に、独自性が煌めいている。

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エロスとは、他者によって与えられるものではない。エロスとは自己の内面に眠っているものであり、それはその人自身にしか「取り出せないもの」である。この女性監督のまなざしは、あるとき、その一点に集中する。本作は多様なファクターによって彩られているが、わたしはその瞬間、この映画のオリジナリティを強く感じた。そして、この真実を、このような筆致で浮き彫りにした点こそが、「第三夫人と髪飾り」と日本で名づけられた作品の最大の価値であると確信している。

人生とは、起きた出来事がすべてではない。出来事がその人間に与える影響、すなわち「もたらされたもの」が最も重要である。これは、ただの理想でしかない。そう切って捨てる観客もいるかもしれない。そうだろうか? わたしたちの心身から希求を奪ったら、いったい何が残るというのだ? これは人間が人間であるための普遍を、特別な倫理と哲学と美学を通過させることで「かたち」にした一作であると、わたしは信じる。

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Written by:相田冬二


「第三夫人と髪飾り」
監督:アッシュ・メイフェア
出演:トラン・ヌー/イエン・ケー/グエン・フォン・チャ―・ミー
10月11日(金)よりBunkamuraル・シネマほか全国順次ロードショー

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