ジャ・ジャンクーの近作がそうであるように、本作も中国の激動史が背景ではある。21世紀の17年間。その渦中で、裏社会に生きた男女が時代に呑み込まれ、別離と再会を繰り返す。だが、人間と社会の位相が、これまでとは異なる。かつての彼の映画が、社会の中に存在する人間を見つめていたとすれば、本作における人物は、世界のはるか上空に佇んでいるかに思える。
たしかに安泰な日々ではなかった。翻弄もされた。凋落もあった。だが、歴史のうねりの中で、不自由でいたことはただの一度もないのではないか。とりわけヒロインには、魂の完全なる自由が与えられているかに思える。監督本人は、近作同様、中国の激変を口にするのだが、国や文化や経済がいかに荒れ狂っても、ビクともしない一大メロドラマがここには繰り広げられているのではないか。威風堂々、悲劇を悲劇に落とし込まない庶民のしぶといありようこそが、ここでは讃えられている。
天に向けて撃ち放った銃声で、女は愛する男を救った。そのことによって、男よりはるかに長い時間を刑務所で暮らし、つまり、人生のある一部分を失った彼女はしかし、後悔などまるでしていないように映る。男がかつてのように自信にあふれていなくても、無様な姿を晒していても、情けない戯言を口にしても、彼女はなにも変えずに、自分の場所に立っている。変える必要もなければ、変わる必要もない。女はそう確信している。束の間の、ほんの束の間の、別な男との時間を見つめる監督のまなざしには、かつて感じられない大らかさがある。
女は女である。ゴダールがかつて呟いたような地点に、いまジャ・ジャンクーはいるのではないか。もっと言ってしまえば、一見過酷に感じられるこの物語は、むしろ、ひとりの女性の生命力こそを際立たせているという意味において、わたしたちはジャン・ルノワールの映画の女性を見ているかのような錯覚に陥るかもしれない。男は自分を高く見積もっていたが、女はもともと己の価値を熟知していた。わたしは、これ以上でも、これ以下でもない。生まれながらに、そんな認識がある。だから、自虐に向かわないし、無駄な夢も見たりしない。あるがままで、自分のできることを、できる分だけ、行う。その、すがすがしさ。
この映画が、所作の映画であることは見逃せない。ハエたたき、銃、そして、ペットボトル。まるで関係ないように見えたものが、女の手を通過することで、点が線となり、生き生きと作品を活性化させていく。いい女は、道具を使って生きのびる。そして、生きのびたことの責任を当たり前にとる。男にはないものが、女にはある。潔さ。それが「帰れない二人」最大の美徳である。
Written by:相田冬二
「帰れない二人」
監督・脚本:ジャ・ジャンクー
撮影:エリック・ゴーティエ 音楽:リン・チャン
出演:チャオ・タオ、リャオ・ファン
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9月6日(金)より、Bunkamuraル・シネマ、新宿武蔵野館ほか全国順次ロードショー