映画が映画の崖っぷちを延々歩いているような映画である。境界線なのか生命線なのか判別はつかないが、すれすれのラインを躊躇なく堂々と歩いている。どこかに落下してもかまわない勇気。というか、既に落っこちているのかもしれないが、それならそれで、とりあえずのそこを歩いていけばいいや。なんてことを考えることもないまま、身体が勝手に動いている。落下して、ぶっ倒れても、いつの間にやら、むっくり起き上がって、平然とした顔つきで、ひょっとしたら、周囲からは夢遊病患者か、はたまたゾンビかと思うくらいの尋常ならざる状態で、どこかに進んでいる。作品に、そんな力が備わっているし、その力にふさわしい質量と速度が、むらむらと黒光りしている。
伝説の作として知られるが、超然とした趣きよりも、あらゆるカテゴライズを拒み、生きているのか死んでいるのかさえも、もはやどうでもいいといった素ぶりが前景化している。なににもなびかない悠然とした肌ざわりが「山中傳奇」というフィルムの唯一無二の魔力だ。
鎮魂のための写経を頼まれた学僧が山奥の廃屋にたどり着く。妖艶な美女と一夜を共にした学僧は彼女と結婚させられるが、その女は人間ではなかった。と物語を紹介することに何の意味があるのか。まるでない。あらすじを綴ったところでなんら本作を伝えることにはならないという点が素晴らしい。
3時間12分は、長い短いの概念を超えている。概念を超越するために必要な上映時間だったのだと、とりあえず呟いておけば、それでよい。むしろ、あっという間だった。夢から目覚めたときのように。そう言い切ってしまえるくらいの感慨さえある。
はたしてこれはアクションなのか否か。だれかとだれかが身体を動かしあうことだけが活劇ではない。ここではないどこかに向かって延々ジャンプしつづけること。終わらない旅を継続すること。途方もない無謀を無謀のままエンドレスにループすること。それもまたアクションなのではないか。キン・フー渾身の映像の連鎖はわたしたちを、そんな思考の魔境に呼び込み、金輪際、外界に出さず、密閉する。そうして、映画とは監禁される悦楽であったことを思い出させるのだ。
Written by:相田冬二
「山中傳奇」
1979年 台湾・香港
監督:キン・フー
出演:シルヴィア・チャン/シュー・フォン/シー・チュン
11月24日より新宿K's cinemaほか全国順次公開
http://sanchudenki.com/