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賀来タクト
開けている、
「世界」に閉じこもっていない
この映画にはふたつの大きな柱がある。
ひとつは、日本人男性とフィリピン人女性の間で生まれた男子高校生とその母親の葛藤劇、もうひとつは男子高校生とその恋人が織りなすゲイ・カップルの物語。
共通の主人公である男子高校生は、社会的マイノリティーであることを自認しつつ、自身の確かな居場所を求めるべく、民族的、及び性的アイデンティティーの落としどころについて逡巡していく。そういう構造。
飯塚花笑監督の商業デビュー作となった前作「フタリノセカイ」(2021)は、控えめに言っても傑作である。
トランスジェンダーとシスジェンダーのカップルを描いたこの作品は、主人公たちが「家族をつくる」=子どもをもうけるまでの10年間を80分の尺の中にねじ込み、同時に「血を分けた子ども」をもうけるという仰天の「ミッション:インポッシブル」を描ききる繊細にして大胆な人間ドラマであった。
彼らの世界づくりは、結果として周囲との軋轢を生み、彼らもそれでよしと言わんばかりに我が道を進む。
つまり、閉じた世界の物語であり、それゆえの濃厚かつ純化された味わいがあった。
彼らの強い意志は執念といってもよく、ラブストーリーとしての深淵へとまぶしく掘り下げられている。
「世界は僕らに気づかない」(2022)も“ふたりの世界”を描く物語に変わりはない。
同じく、周囲からの理解を得られない物語でもある。
その意味では「セカイ」シリーズの続編的気分がある。
ただし、先述のとおり、ふたつの“ふたりの世界”であり、主人公たちは周囲に背を向けることもない。
むしろ自分たち以外の世界=家族に視点を移し、光明を探ろうとするのである。
ある意味で、正反対の意志が描かれたといっていい。
つまり、開けている。
「世界」に閉じこもっていない。
マイノリティー・カップルの物語を描く映画監督というのは、とかく「困難な境遇のラブストーリー」を連作しがちである。
手を替え品を替え、周囲との「戦い」を描く。
その頑ななまでの姿勢は作家性としては美しいかもしれないが、ともすれば同じ表現の繰り返しになり、その足踏みの中で、自らの情熱の炎で燃えつきてしまう。
しかし、飯塚花笑は同じ愚を犯さなかった。
閉じこもっていては何も始まらない、進まないことをわかっていた。だから、悩める主人公たちにも外界への一歩を踏み出させた。
「Angry Son」という英語題は象徴的で、文字どおり、このタイトルロール=怒れるフィリピンダブルの主人公は飯塚花笑自身である。
もちろん、飯塚花笑はフィリピン人の母親を持っていない。
しかし、母親に対する特別な葛藤があった。
イライラがあった。
堀家一希演じる主人公にはその投影があり、母子間の物語は決して性的マイノリティーを屹立させるための添え物に終わっていない。
飯塚花笑に単なるトランスジェンダー恋愛作家としての深化を期待する向きには、今回の作品が前作に比べて薄味に感じられる者もいるだろう。
だが、それは視野の広がりがもたらす誤解であり、作家としての退行を示すものではない。そこを間違えると、飯塚花笑という映画作家の将来を読み間違えることになる。
飯塚花笑は性的マイノリティーの問題にばかり拘泥しているわけではない。
少なくとも、ここでは日本社会における民族マイノリティーという深く大きい問題に飛び込んだ。
いや、正確にはその問題を自身の物語に呼び込んだ。
そうすることが自身の映画作家としての前進になることを飯塚花笑はわかっている。
トランスジェンダーとしての自身の立ち位置がより明快になることを感じている。
これほど個人の問題を客体化し、同時に社会の問題を自身に引き寄せることができる映画作家は現代でも稀ではないか。
問題意識の部分を除けば、飯塚花笑の語り口自体は王道であろう。
映像的にも変な飛び道具を使わない。
どちらかといえば、無骨といっていい。
飯塚花笑は人間を真正面から見つめようとしている。
それが頼もしい。
それが嬉しい。
もしやこの先、マイノリティーという視点は彼の作品の中から徐々に消えていくかもしれない。
我々が想像する以上に飯塚花笑は気骨の作家に成長していくのではないか。
この映画は彼の新しい出発を告げる一本でもある。
世界はまだ本当の飯塚花笑に気づいていない。
脚本・監督:飯塚花笑
出演:堀家一希/ガウ
2022年/112分/日本
配給:Atemo
(c)「世界は僕らに気づかない」製作委員会
2023年1月13日(金)より新宿シネマカリテ、Bunkamuraル・シネマほか 全国ロードショー