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review

女神の継承

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相田冬二


ナ・ホンジンがプロデュースした
地獄めぐりの果て

ナ・ホンジンが、あの「哭声/コクソン」でファン・ジョンミンが演じた祈祷師をスプリットさせ、知られざる彼のエピソードを紡ぐ--そうして企画された物語は、まず性別を変換し、さらに舞台を韓国からタイへと越境させ、自らはメガホンをとらない……だから「女神の継承」が、果たして「コクソン」を継承した姉妹編と呼びうるのか、見解は分かれるところだろう。

ナ・ホンジンは種を蒔き、育てただけのことで、発芽したのは、タイのヒットメイカー(と呼んで差し支えのないキャリアの持ち主である)、バンジョン・ピサンタナクーンなのだから。

しかもバンジョン・ピサンタナクーンは脚本も手がけており、ナ・ホンジンのクレジットは、あくまでも原案・プロデュースのみ。

だが、そうしたことなど、どうでもよくなるほど、映画の迫真が極まっている。

さらに言えば、「コクソン」との因果関係よりは、ナ・ホンジンという映画作家との因果関係に着目して、この極致芸術を堪能するのが望ましい。

「チェイサー」にしろ「哀しき獣」にしろ、ナ・ホンジンの映画は基本的に【地獄めぐり】であり、とりあえずの主人公=ゲームプレイヤーはいるものの、主眼は起こる出来事であり、それを誘発させる世界であり、染み付いて離れられなくなるほどの体験そのものである。

すべてが破格のスケールで、ピラミッドの如く聳え立つことになったのが「コクソン」であった。

「女神の継承」は、こうした方向性がさらに局所的になっており、もはや、主人公を仮想することも困難である。

企画の発端を鑑みれば、タイ東北部の村の中年女性へと転生した祈祷師→霊媒師(英語タイトルは“medium”)に主体があるように思えるが、擬似ドキュメンタリーとしての筆致が選ばれているため、彼女もまた被写体でしかない。

この霊媒師の姉の娘が、奇怪な行動をするようになり、どうやらそれは(霊媒師がかつて継承した)“女神”が取り憑いているからだ、と周囲は想定する。

事態を打開する方法は、ただひとつ。正当な継承式をおこなうこと。と、思われたが、どうやら、取り憑いていたのは“女神”ではないらしい――

というのが概要だが、前述したように、人間の想定を超えてくる出来事と、それを突きつけてくる世界、そこからもたらされる経験こそが、この映画でも肝となる。

主体や物語に意味はない。逆に言えば、わたしたちがいかに、主人公やら展開といった概念に支配されているか、そのことを思い知らされる。

擬似ドキュメンタリーを始め、「ゾンビ」から「キャリー」にいたるまで、様々な記憶を映画好きは召喚するだろうが、そんなことにも全く意味はない。

本作は断じてオマージュなどではないし、ジャンルの集積ですらない。

わたしたちが想定できることは、ごく小さなエリアだけのことであり(過去の映画の記憶を召喚するのは、その最たる行為である)、そのエリアの外には、広大な地平が広がっており、未知なる広域は、わたしたちのちっぽけな想定など、簡単に踏み躙るのだということ。

わたしたちは虫けらにすぎない。

この真実を立証し、ぐうの音も出ないほど、突きつけてくる。

しかも獰猛なまでの活劇の連打によって。ナ・ホンジンにも節操のないバイオレント魂は脈打っていたが、バンジョン・ピサンタナクーンにはより痛快なベクトルがある。

問答無用で、虫けらどもを一網打尽にしていく。

本作をホラー様式のモダニズムとして捉えたい向きもあるだろう。

あるいは「コクソン」に連なる哲学の観点から解釈する者も現れるかもしれない。

だが、「女神の継承」は、カテゴライズを黙殺し、解読をすり抜ける。

ぬめぬめとした軟体動物のようなしなやかさで、永遠のにやにや笑いを深層心理に刻みつける。

もう、祈ってる場合ではない。

そして、絶望している場合でもない。

完全降伏。

それが、本作に対する最も正しい態度。

百聞は一見の奴隷である。



「女神の継承」

原案・プロデュース:ナ・ホンジン
監督:バンジョン・ピサンタナクーン 
出演:サワニー・ウトーンマ/ナリルヤ・グルモンコルペチ/シラニ・ヤンキッティカン
2021年/タイ・韓国/131分
原題:랑종/英題:THE MEDIUM
配給:シンカ
提供:シンカ、エスピーオー
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7月29日(金)より シネマート新宿、ヒューマントラストシネマ渋谷、グランドシネマサンシャイン池袋にてロードショー


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