「姉姉妹妹」キャシー・ウエン (c)Muse Films
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夏目深雪
注目された
LGBT映画、東南アジアのエンタメ、香港映画、女性映画
コロナ禍が直撃した昨年をふまえ、今年はオンライン座として過去の上映作やリアル上映と同時に短編・長編あわせ9本が上映され、夜遅くの回の上映こそないものの、ラインナップとしては十分豪華なものになった。
暉峻 PDの指向性であるLGBT映画、香港の“今”を切り取る香港映画、女性監督による女性映画、東南アジアのエンタメ作品などから今年もイキのいい良作がいくつかあった。
何作かピックアップしてみたい。
「人として生まれる」リリー・ニー(倪曜)
※薬師真珠賞受賞(主演女優リー・リンウェイ(李玲葦))
女性同士の恋愛を官能的に綴った、香港インディーズの旗手ヤンヤン・マク(麥婉欣)の「胡蝶」に胸ときめかせたのは暉峻 PDが「アジアの風」部門のプログラム・ディレクターに選任されて3年目に当たる、2005年の東京国際映画祭だった。
16年後である今年の大阪アジアン映画祭でも「愛・殺」という女性同士の恋愛をエモーショナルに描いた作品があり、ブレない姿勢を感じさせてくれた。
「愛・殺」はオープンリー・レズビアンの作家として既に数々のクィア映画を発表している台湾のゼロ・チョウ(周美玲)の作品。
激しい同性同士、特に女性同士の愛を描く映画は、アジア以外でもセリーヌ・シアマの「燃ゆる女の肖像」が今年話題を呼んだし、一つのジャンルとして既に確立されているだろう。
LGBT映画の近年顕著なもう一つの側面と言えるのが、性愛を描くより、まだ世間的な認知度も低く、よって偏見にもさらされやすいジェンダーの問題を真摯に見つめた作品だ。
第14回の大阪アジアン映画祭でもトランスジェンダーの問題を真正面から扱った「女は女である」が上映された。
「台湾:電影クラシックス、そして現在」部門で上映された「人として生まれる」は性分化疾患 ── 一つの体に女性と男性、二つの生殖器を持って生まれてきた少年・シーナンを主人公としている。
両親によって性別を女性と決められてしまい、本人の了承を取ることなくホルモン剤投与が行われ、秘密を級友たちに知られてしまい虐めにあう。
昨年も「メモタルフォシス」という性分化疾患をテーマにしたフィリピン映画が上映されたが、同じ台湾映画ということもあって(ただし監督は中国人で、中国で撮るのが無理なので台湾で撮ったそう)、私は昨年のフィルメックスで上映された「無聲(むせい)」を想起した。
聾唖学校で日常的に性的暴行に遭っている女子生徒を主人公にした映画で、現代の日本ではもう撮ることが難しいのではないかという意味で、90年代から2000年始めの頃の岩井俊二監督作品を思い出させる作品であった。
性的マイノリティが虐めなど深刻な問題に遭う物語は、LGBT当事者から批判を浴びる可能性も高いだろう(例えば「ミッドナイトスワン」に寄せられた批判のように)。
主人公をLGBT当事者が演じていないことも批判の対象になり得る。
だがそういった批判とはまた別の次元に、アジア映画のマイノリティ表象の可能性があることを思い起こさせるポテンシャルを持った作品であった。
この作品における、紋切り型や安易な設定の有無は難しい判定でもあるのだが、リー・リンウェイの演技力により、全編を通して漲っていた真実味とエモーションは特筆すべきものだろう。
少年から少女へと変化する肉体と精神を演じきった彼女は薬師真珠賞を受賞した。
また、まだ若い中国人女性監督が、一人の性分化疾患を抱えた少年(女)を真正面から衒いなく描き切ったことも称賛されるべきだろう。
「君をこえて」パク・ホンミン
コンペティション部門で上映されたパク・ホンミンの作品。韓国映画は何故かホン・サンスを始めとして、映画監督が主人公の映画が多く、インディーズ映画でもよく見かける。
アジアの中で唯一メタ映画的な傑作が数多く生まれる土壌は、急激な民主化によって花開いた欧米映画の様式の衒いのない吸収による、映画文化の多様性の中にあるのだろうか。
うだつの上がらない映画監督・キョンホ。
何十年も前の、忘れかけていた恋人。
アルツハイマーになってしまった彼女に再会するうちに、キョンホは混乱した記憶の旅に出る。
パク・ホンミンは韓国のデヴィット・リンチ、クリストファー・ノーランと呼ばれているそうだ。
今まではそこで欧米監督の名前が出る時は、底上げ感が否めないものだったが、二監督もまた違う、韓国文化に根差した陰鬱で夢魔的なトーンは、彼らにも決してひけを取らないクオリティを持つものであった。
「愛しい詐欺師」メート・タラ―トン
タイはアピチャッポン・ウィーラセタクンやアノーチャ・スウィーチャーゴーンポンのようなアート系の逸材がいる一方、GDH559(2015年に設立したGTHの後継会社)の作る若い人にターゲットを合わせた良質なエンタメ作品も製作される。
GTH時代でいうと「愛しのゴースト」「すれ違いのダイアリー」などで、いずれもタイ国内でも大ヒットを記録した。
2017年に製作された「バッド・ジーニアス 危険な天才たち」は通も唸らせるクオリティの高さを持っていたし、昨年日本でも初劇場公開された「ハッピー・オールドイヤー」のナワポン・タムロンラタナリット監督は、今まではどちらかというとアート系の作品を作ってきた監督である。
と、特にGDH559になってからアートとエンタメの境界がはっきりしなくなっている印象を持っていたのだが、コンペティション部門で上映された「愛しい詐欺師」は久々にエンタメど真ん中の快作である。
年下の恋人ペットにお金を騙し取られたクレジットサービス会社に勤務するOL・イナーが、自分を騙そうとした詐欺師タワーをスカウトし、ペットに報復しようとする。
騙し騙され……の合戦が繰り広げられるのは想定内なのだが、イナーの恩師でビール会社のCEOに扮したヌット先生のペットへのお色気作戦も笑えるし、その秘書に扮したタワーの兄で同じく詐欺師のジョーンの可笑しさといったら、抱腹絶倒(出てくるだけで可笑しいのだ!)。
また、ホテルの支配人が前歯が欠けていて、唾が周りに飛び散りまくるというギャグがあり、時勢柄スレスレ感が強いのだが、私は爆笑してしまった。
とはいえ、終盤はちゃんとコロナ禍を取り入れた作劇をしていて、このギャグを削らないことに製作陣の心意気を感じた。
気になったのは会場はなかなかに埋まっていたのに、繰り広げられるギャグに爆笑していたのが私を含め十数人であったこと。タイのギャグは日本の観客にはベタすぎるのか……。
「狂舞派3」アダム・ウォン(黃修平)
ヒップホップを構成する要素はラップ、ブレイクダンス、グラフィティ(壁に描かれた落書き)、DJプレイの4つだという。
もともとNYが発祥の地の文化であり、アジア映画の中でも描かれるのだが、「SR サイタマのラッパー」シリーズ(日本)でも「ガリーボーイ」(インド)でも、その国に伝播して変化した芸を愉しむというような見方にどうしてもなる。
コンペティション部門で上映された「狂舞派3」が凄いのは先に書いた4つの要素が全て入っていて、特にラップとダンスが技術的にも本場と較べてもさほど遜色がなさそうなほど素晴らしいこと。
それでいて、彼らが踊り、ラップするのは土地開発により香港の良さを失いつつある香港のためであるのだ。
彼らのキレのいいダンスと魂の叫びであるラップから、“今”の香港が浮かび上がってくる。
中国返還後の香港映画の凋落はアジア映画ファンを悲しませたが、今年は特集企画《Special Focus on Hong Kong 2021》が組まれ、アン・ホイ(許鞍華)のドキュメンタリー「映画をつづける」も上映され、「十年」のクオック・ジョン監督による短編「夜番」も、若者の抗議活動をタクシー運転手の視点から描いた秀逸なものであった。
「手巻き煙草」も往年の香港映画の匂いもありながら新機軸も感じさせる作品であったし、かつて香港映画の紹介で一世を風靡した暉峻 PDの面目躍如の感があった。
「姉姉妹妹」キャシー・ウエン (写真)(c)Muse Films
※ABCテレビ賞受賞
特集企画《ニューアクション! サウスイースト》で上映された、女優やプロデューサーとして活躍してきたキャシー・ウエンの監督デビュー作。
一昨年も「第三夫人と髪飾り」「サイゴン・クチュール」と劇場公開され、女性監督による女性映画がめざましいベトナム。
珍しくサスペンスタッチで、金持ちの家に入り込んだメイドの物語ということでは韓国の古典「下女」、そのリメイクである「ハウスメイド」を想起させる。
中盤以降のどんでん返しはパク・チャヌクの「お嬢さん」を思い起こさせるところがあるが、同性愛の要素はあるものの、最終的にシスターフッドの物語にはならず、そういう意味では女性らしいシニカルさが感じられる。
ラジオパーソナリティを務めるキムは、夫フイと豪邸に住んでいる。
夫からのDV被害に悩む妊婦ニーからの電話を番組で受けたことから、キムは同情してしばらく家にメイドとしてニーを置くことになる……。
緩みのないストーリー展開もベトナム映画としては新機軸を感じさせるが、何よりも素晴らしいのは俳優たちのゴージャスな佇まいと絡み合いによる化学変化の妙である。
「輝ける日々に」の美人女優タイン・ハンがセレブな若妻キム、ベトナムのポップスター、チー・プーが誘惑者ニー、ユニセックスな魅力がある男優ライン・タイン(実際ゲイ映画「こんなにも君が好きで -goodbye mother-」に主演もしている)が見目麗しい夫フイを演じ、その三つ巴が映画を妖しく引っ張っていく。
前述した「第三夫人と髪飾り」「サイゴン・クチュール」も女性スタッフが多く、またそのことに拘ったそうだ。
監督の来日がコロナ禍のせいで叶わなかったこともあり、この映画もそうなのか聞くことはできなかったが、明らかに女性の手触りや思考が全編感じられた映画であった。
ベトナムにおける新たな「女性映画」の扉を開いたと言えるこの作品はABCテレビ賞を受賞した。