photo:星川洋助
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相田冬二
今、現在、何かが、
スクリーンの上で起こっている
菊川にあるStrangerで1月20日(金)より「ぶっ放せ!ドン・シーゲル セレクション」が行われる。
「ダーティハリー」に出逢ったことが、映画ファンとしても、映画監督としても決定的なことだったという万田邦敏。この特集上映を機に、ドン・シーゲルについて語る。
【女っ気なし】
僕は1956年生まれですが、このくらいの世代の人間にとってドン・シーゲルはだいたい「ダーティハリー」(1971)からですね。それ以前の作品はなかなか観ることができなかった。テレビで「刑事マディガン」(1968)を観たくらい。「ダーティハリー」以前の作品をスクリーンで観ることはできていない。だから今回の上映はとても貴重だと思います。「ダーティハリー」はとにかく面白かった。無駄がない。これに尽きます。一見、ストーリーは色々と迂回しているように見える。ところが、無駄があるようで、全く無駄なシーンやカットがない。まず、それにビックリした。余計なことを描いていない。「ダーティハリー2」(監督:テッド・ポスト)を観るとわかるのですが、ドン・シーゲルの1作目「ダーティハリー」には女っ気がない。これは当時としても珍しかった。「2」にはありますからね。犯罪映画には必ず主人公に絡む女性が出てくるのに、それがない。女性は、ハリーの相棒の奥さんくらいでしょう。ほとんどゼロに近い。このことが、この映画をよりストイックなものにしている。
【開巻】
どの映画も冒頭が、ものすごくスピーディですよね。その印象が強いので、その後の展開が少し緩くなっても、緊張感がずーっと続く。そうしているうちに、次なる緊迫するシーンを出してくる。ど頭の印象は強いと思います。今回観直して気づいたんですが、まず主人公が現場に乗り込んでくるところから始める。その乗り込みの見せ方が上手い。向こうから主人公がやってくる。これが強い印象を残します。「殺人者たち」(1964)なんて、まさに乗り込んできますよね。しかも盲学校に。めちゃくちゃ不穏。「殺人捜査線」(1958)でも、事故現場にパトカーが物凄いスピードで乗り込んでくる。降りてくるのは冴えない2人の刑事ですが、あの乗り込み方は凄い。そして真の主人公たちは、飛行機でサンフランシスコにやって来る。空撮でちゃんと飛行機を撮って、奴らがやって来るということを強く印象づける。映画は既に始まっている。この感覚。いきなり映画に引き込まれていく感覚。最近の映画ではお目にかかれない感覚です。
【生きる目的】
「ダーティハリー」が公開された1971年に「フレンチ・コネクション」も公開されている。当時は、あなたはどっち派? と比較されもしました。「フレンチ・コネクション」ではジーン・ハックマンとロイ・ シャイダーが冴えないヒーローとして登場してくる。イーストウッドが演じた颯爽としたハリーとはまさに対照的。映画史的には、冴えないヒーローが生き残り、ハリーのような颯爽としたヒーローはもうほとんど見かけません。1971年は、一つの分岐点でもあった。現場に乗り込んでくる古典的なヒーロー。そこに乗っかりながらドン・シーゲルは映画を作り続けた。「ドラブル」(1974)も、まず主人公が乗り込んでくる。ただ、あまり颯爽とはしていません。裏ぶれたスパイです。しかし、息子を誘拐された被害者なのに、あくまでも能動的に、確たる目的を持って動いていく。このマイケル・ケインは、目的を喪失した人間ではないのです。ドン・シーゲルの後に、彼の助監督をしていたサム・ペキンパーが台頭する。ペキンパーは、ドン・ シーゲルが描かなかった「目的を喪失した人たちが最終的には暴力に囚われていく姿」を描いた。ドン・シーゲルの古典的なヒーロー像を否定し、アメリカン・ニュー・シネマの時代にふさわしい新しい犯罪映画を作っていった。
【暴力】
過去と現在が行ったり来たりしても、緩むことがない。昔を懐かしんだり反省したりするのとは違うかたちで、過去を語る人が現れる。「殺人者たち」は過去の出来事をもう一回やり直すために女々しく振り返るのではなく、「既に明らかに終わっている過去」を「今」のために突き止めていく。常に向き合っているのは「今」。だから、観ていて気持ちがいい。湿り気がまるでない。そして、主人公リー・マーヴィンは、大人も子供も女も身体障害者も、分け隔てなく、容赦しない。全員、一緒。平等に、暴力はふりかかる。非情。乾いた非情。情け容赦ない非情。心情的な要因や、社会的な要因などで、一切、自己を正当化しない。やがて、時代的・心情的な正当性を主人公に与えないと非常な映画は成立しなくなっていったが、ドン・シーゲルは最後まで、情け容赦ないヒーローの側に留まり続けた。「殺人捜査線」のイーライ・ウォラックは、やや神経症的なキャラクター。だが、いくら暴力をふるっても、己の残酷さに酔うようなことはない。彼はただ、自分の仕事のため、自分の目的のために、そうしているにすぎない。ドン・シーゲル映画の人物たちは、誰も悩まない。今、映画の主人公はみんな悩む。映画を観る人も、主人公の悩みを観に行く。だが、ドン・シーゲルの映画では、悩みは内向しない。全部、外に出る。溜め込まない。「ドラブル」のマイケル・ケインも奥さんとの会話の中で「自分がこんな仕事をしていなければ、我が子は誘拐されることもなかったのに」と一瞬、真情を吐露する。しかし、自分の悩みを奥さんに許して欲しいという見せ方ではない。結局のところ彼は、逆に「自分の仕事を利用して」息子を救う。とことん、前向き。今回の特集を、懐古的に観るのではなく、「今、現在、何かが、スクリーンの上で起こっている」ことに出逢い、驚いて欲しいと思う。「現在」をやり直したり整理したりするために「過去」に問題を探るのではなく、解決すべき問題は常に「現在」と「今」の側にある。それが、映画を作る人たちにとって当たり前だった時代は、確かにあったのだ。
【影響】
ドン・シーゲルだけの影響ではないが、自分が作る映画はドライな方がいいと思っている。単なる好き嫌いかもしれないが、ウェットなものよりは、ドライなもの。逆に、だから、ドン・シーゲルに惹かれてしまうのかもしれない。そもそも、映画を作りたいと思ったのは、中学3年生から高校生にかけて、「ダーティハリー」を観て、さらに同時期にゴダールを観たから。それが決定的だった。ドン・シーゲルも、ゴダールも、まるでウェットではなかった。
【過去よりも現在】
過去に戻らない。今だ。「今立っている場所」が重要。「過去、どこに立っていたか」は問題ではない。今、敵を撃つのか、撃たないのか。あいつを、追うのか、追わないのか。過去に縛られて、今の行動を考えてはいけない。 今、やるべきことをやる。これがドン・シーゲルの映画です。もっと本質的な今を。映画的な今を。それを求めながら、「今」を「空気感」などという雰囲気で描こうとする今どきのリアリティとはまったく無縁な、フィクショナルな映画として立ち上げようとしているから、私はドン・シーゲルに惹かれ続けています。
「殺人捜査線」
2023年1月20日(金)~3月2日(木)
菊川 Strangerにて公開
1月20日(金)~2月9日(木)
特集①:50年代から60年代
第十一号監房の暴動 Riot in Cell Block 11(1954)
ボディ・スナッチャー/恐怖の街 Invasion of the Body Snatchers(1956)
殺人捜査線 The Lineup(1958)
燃える平原児 Flaming Star(1960)
2月10日(金)~3月2日(木)
特集②:60年代から70年代
殺人者たち The Killers(1964)
真昼の死闘 Two Mules for Sister Sara(1970)
突破口! Charley Varrick(1973)
ドラブル The Black Windmill(1974)