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review

来し方 行く末

text
夏目深雪


様々な人々の身体と精神の乖離を
埋める作業をする青年

1981年生まれの中国の新鋭監督リウ・ジアインの「来し方 行く末」を、東京国際映画祭で観た時は、今までの中国映画にない作風に感心するとともに、少しひっかかるものも感じた。

中国の作家たち――65年生まれのロウ・イエや70年生まれのジャ・ジャンクーはもうベテランの域に入るだろうが、その作風の若々しさとともに、母国に対する愛憎相半ばする批判精神が苦く後を引き、そのアンビバレントな拮抗が中国映画を観る愉しみとして自分のなかで定着していた。

「来し方 行く末」は弔辞を書く仕事(日本では聞いたことがないが、中国では実在するのだろうか、昨今このテーマを映画で描くとなるとAI絡みが最もありそうだ)をしている青年ウェン・シャンが主人公である。

仕事が殺到している優秀なライターのウェンは、弔辞を書くための取材にも追われながら、同時に「この弔辞は故人のことを全然表現してない」などのクレームにも追われている。

人のいいウェンは、彼らの相手をしながら、もう会うことすらできない故人の過去の人生に足を踏み入れていく。

人の死は、映画ならではの表現ができるテーマである。

何故なら、死が徹頭徹尾身体レベルのものであるからだ。
精神は下手をすると死ななかったりする。

そう描かれることが多い。
それほど人の死は唐突で、周りの人に衝撃と耐え難い断裂と空白を味わさせる。

故人の精神が生きている、と表現したい場合は、時間を遡って故人が生きていていた頃をフラッシュバックで描くことが多い。

もっと斬新なものだと、亡霊というのでもなく、故人がふいに姿を見せたりする。ちょうど同時期に公開されるカナダ映画「メイデン」がその混合をやっていて素晴らしかった。

冒頭近くで、2人組の少年の1人カイルが電車事故で亡くなってしまうのだが、二部構成の第二部は、渓谷で亡くなってしまった少女ホイットニーの視点に移り、なんと、逢魔が時でホイットニーはカイルに出逢うのである。

人の死における、身体と精神の乖離を埋めるために、葬儀等の喪の儀式はあるのだろうが、個人のレベルではなく、集合的意識に近いもので、映画もまたその役割を担っているのだろう。

以上のことを考えると、「来し方 行く末」は映画的というよりは文学的である。

故人の姿は現れず、あくまで兄弟や知人による言葉によってその姿は描写される。

会社の同僚といった、故人をよく知っている者もいるが、なかには、仲違いしてしまった兄弟やネットで逢っただけの知人など誤解もありそうな人たちの言説も混じってくる。

「事実はその人によって違う」――「羅生門」のテーマだが、そのこと自体を言いたいのでもなさそうだ。

そう、ちょっとした違和感とは、映画ならではの手段を使っていないこと、あと冒頭述べたような中国映画らしさ――映画としての尖り具合――が足りないような気がしたのだった。

だが、ここで中国では“亡霊”を映画で描く、つまりホラー映画が共産党により禁止されていることを思い出そう。

鶴田法男が中国で撮った「戦慄のホラー」も、結局犯人は亡霊ではなかった。

この、映像に頼らない“人の死”の、ある意味で上品過ぎる描写は、中国映画ならではのものなのかもしれない。

もっと若い世代、チウ・ションやビー・ガン(ともに89年生まれ)になると、母国への拘りのようなものは薄れ、ネットネイティブらしく題材の掴み方が全世界に普遍的なものになっていく。

それも世代的な変化なのだろう。

中間の世代に位置するリウ監督は、あくまでつましく、様々な迂回をしながら、様々な人々の身体と精神の乖離を埋める作業をする青年を描いた。

身体と精神の中間にいる青年、2つの世界の間に架かっている止まり木のような彼の丁寧な仕事は、観客の心に残る。

その場所は「中国」でも「全世界」でもなく、おそらくリウ監督が創出したものであろう。見事な仕事である。


「来し方 行く末」
監督/脚本:リウ・ジァイン
出演:フー・ゴー/ウー・レイ/チー・シー
2023年/119分/中国
原題または英題:不虚此行 All Ears
配給:ミモザフィルムズ

2025年4月25日(金)より新宿武蔵野館、シネスイッチ銀座、アップリンク吉祥寺ほか全国順次公開


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