「夢見るペトロ」
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小林淳一
田中さくら監督の話法と世界観は、ありそうでないもので、
極めて現代的であり、いまを感じる
「薄暮の旅路」は田中さくら監督「夢見るペトロ」「いつもうしろに」の連作タイトルである。それぞれの映画は独立している。一方で、磁石のS極とN極のように独立しながら、影響し合っている。共鳴している。
兄が飼うインコのペトロが消失することから「夢見るペトロ」は始まる。主人公のさゆりの周りからはさまざまなものたちが消え始めていく。
ビー玉を転がし、家が傾斜していることを確認する。落ちていたランドセルを開くと、彼女は過去へと召喚される。世界が変容している。世界が変転している。これは幻想譚なのかと感じる。アピチャッポン・ウィーラセータクンやラヴ・ディアスや黒沢清の諸作のように、世界が変わっていくSFのようなものを感じたが、田中さくらという監督はそこへは行かない。あくまでもミニマム。そして、リアル。
さゆりは消えていくものたちに対抗するために、消えないであろうマリモを飼う。そもそもこの世界の変容を巻き起こした大きな理由はおそらく彼女の失うことへの恐怖だ。
周りの世界は確実に失われていく。そして、それを徐々に受け入れていく主人公に監督は優しい。
物語は幻想譚でもSFでもないリアルな日常へと回帰する。治すこともしないし、大きな解決もしない。うまく言えないが、すこしだけ、回復する。それを受け止めて生きる主人公のラストのリアルに感銘した。消えたものもまた、どこかで生きているのだと。だから、さゆりもまた日常に戻る。
対する「いつもうしろに」。
「夢見るペトロ」と真逆に、ここではものが消えていくのではなく、主人公がものを消していく(捨てていく)。しかし、その捨てた(消えた)ものたちが現れるという話である。
友人と漫画家を目指していた自分。友人と共に漫画を捨てたショウタ。そこに明確な後悔があるのかを、監督は描かない。
しかし、「夢見るペトロ」のように世界は変容するし、過去へと誘われる。さまざまな消えた(捨てた)ものたちがショウタの前に現れる。
「ペトロ」と違うのは、「傷」というセリフが使われていることだろう。しかし、「傷」は「ない」とショウタは言う。
もっとわかりやすく作ることは簡単だろう。「ペトロ」にしろ「いつもうしろに」にしろ、もっと明確に原因を描くことは可能だ。しかし、監督はあくまでもほんのちょっとだけの違和感のようなものを伝える。
「ペトロ」のさゆりは消えていくものを少しずつ受け入れた。「いつもうしろに」のショウタは消えたもの(捨てたもの)たちは常に近くにあることを少しだけ受け入れる。
いつの制作かは置いておいて、コロナ禍の影響も感じる作品である。
ミニマルな世界をみつめる田中さくら監督の話法と世界観は、ありそうでないもので、極めて現代的であり、いまを感じる。
1本目と2本目の映画がまるで兄弟姉妹のように対に見える作家が存在する(「夢見るペトロ」は第1作、「いつもうしろに」は第2作)。
例えば、ジム・ジャームッシュの「パーマネント・バケーション」と「ストレンジャー・ザン・パラダイス」。
例えば、レオス・カラックスの「ボーイ・ミーツ・ガール」と「汚れた血」。
例えば、ビクトル・エリセの「ミツバチのささやき」と「エル・スール」。
田中さくらの「夢見るペトロ」と「いつもうしろに」もそんな兄弟姉妹のような作品だ。
どちらが好きかは、どの作家においても、観る側の趣向性によって決まる。優劣があるわけではない。
第1作「夢見るペトロ」では、縦構図でカメラのピンを動かしたり(薄暮を感じる)、薬缶の沸騰する音などのリアルな背景音と静謐な世界の対比など、監督が映画と格闘する様が、愛おしい。
第2作の「いつもうしろに」では、すでにそのような必要はなく、薄暮の部屋とうっすらと光が入る窓と外部さえあれば映画はつくれるというばかりにその演出は成熟の度を増している。木の元で座って話させるシーンは堂々たるものだ。
ミニマムでありながら、田中の2本の映画は決してモノローグ(一人語り)にはならない。2本ともダイアローグ(対話)で進行する。それが幽霊であろうと、イメージであろうと、過去の人であろうと。
文学的でありながら、哲学的である。しかし、それをあくまで映像で行う。詩のようでもある。
ジャームッシュも、カラックスも、エリセも3本目は苦しんだ。
田中さくらが苦しむ3本目がいまから愉しみでしょうがない。
「いつもうしろに」
「夢見るペトロ」
監督・脚本:田中さくら
出演:前田紗葉/千田丈博
2022年/32分/日本
「いつもうしろに」
監督:田中さくら
脚本:田中さくら/石井夏実
出演:大下ヒロト/佐藤京
2023年/36分/日本
3月2日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて
〈特集上映〉薄暮の旅路 田中さくら監督2作品同時上映