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小橋めぐみ
消えゆく記憶、受け継がれた記憶
台所で、私がカレーの支度をしていた。
我が家のカレーは、みじん切りしたニンニクをバターと油で炒め、そこにみじん切りした玉ねぎを入れて飴色になるまで炒め、牛肉、時に豚肉を投入し、炒め、水を足してしばらく煮込む(鶏ガラスープ、ローリエも投入)。別のフライパンで、にんじん、ジャガイモを炒め、お肉の鍋に投入。野菜が柔らかくなったら、カレールウを溶かして出来上がり、だ。
その日、母は出かけていた。
まな板の上にある、刻んだ玉ねぎとニンニクを見た父が
「この白いのはなんだ?ショウガ?ニンニク?」と聞いた。
私が「ニンニク!」と答えると「お前の小さい頃は、お父さんが料理にニンニクを入れようとすると、だめ!めぐみが臭くなるから!と、お母さんに言われたよ」と、言った。
お前のバレエのレッスンがあったから、気をつけていたと。
初耳だった。レッスンに通っていたのは、3歳から14歳まで。小学生の頃は、週4回ペースでレッスンがあった。
私は母のおかげで「あの子、臭い」と思われたり、周りに嫌な思いをさせずに済んだのだ。
今までに何度も台所に立って、カレーを作っていたのだけれど、この年齢(42)になって初めて父からそのことを聞かされた。
と言っても、父もふと思い出してさらりと言っただけで大きな意味はないだろう。
と、感慨に耽り、この話を帰ってきた母に話したところ、「全く記憶がない」と笑った。
言ったとしても1回くらいだし、そんなストイックに育てた覚えはない、と。
「第一、お父さんは台所に立つこともほとんどなかったし、作るとしたらガーリックチャーハンだったでしょう?大体、極端なのよ、お父さんは」 と、愚痴が始まってしまったので、この話は終わりにした。
ただ、不意に明かされる家族の話がある。
それを聞き逃してはいけない気がする。
そうやって、知らないところで両親に守られてきたのだと知ることができて、心からよかったと思う。
大袈裟かもしれないけれど「スープとイデオロギー」を観た後だったから、余計そう思えたのかもしれない。
「タイトルには、思想や価値観が違っても一緒にご飯を食べよう、殺しあわずともに生きようと言う思いを込めた」と、ヤン ヨンヒ監督は語っている。
そのタイトルにある「スープ」、在日コリアンであるヤン監督の母が作る参鶏湯は映画の中で何度か印象的に登場する。
2016年夏。
高麗人参、なつめ、大量のニンニクを一羽の鶏に詰めて、大きな鍋でじっくり炊く母。数時間後、旨味たっぷりのスープが出来上がる頃、監督ヤン ヨンヒの夫となる12歳年下のカオルさんが現れる。
結婚の挨拶にやってきたのだった。
画面越しでも十分に伝わるほど緊張の面持ちだったカオルさんは、3人で美味しいスープを飲むうちに、少しずつ打ち解けてゆく。
2度目の登場では、母とカオルさんが共に参鶏湯を作る。
二人でニンニクの皮を剥きながら楽しそうに話す姿がとても微笑ましい。
そして3度目。
エプロンをしたカオルさんが参鶏湯を作りながら、義母の帰りを待っている。
義理の息子に、しっかりとレシピが受け継がれているのである。
ちなみにこの時、エプロン姿のカオルさんが、義母に失礼な案内を送ってきた業者にクレームの電話をするのだけれど、温和そうな彼の「本気で怒ったら怖い」一面が見えて、そのギャップに思わず笑ってしまった。
笑いながら、家族になるってこういうことなのだなあ、と胸が熱くなった。
かつて朝鮮総連の活動家だったヤン監督の亡父の口癖は「娘の結婚相手は日本人とアメリカ人は認めない」だった。
その父の遺志に反した結婚だが、母はニコニコと温かく迎え、秘伝のレシピを伝授する。
もし父がカオルさんと出会っていたら、どんな態度を取ったのだろう。
わからないけれど、献身的で優しく、でも家族を守ためには時にとんでもなくキレる。
そんな義理の息子を空の上から、ニコニコ見守っているのではないかなあ、と感じた。
母は、タンスの上にたくさんの写真を飾っている。
夫、平壌にいる息子、そして孫たちの写真だ。
飾ることでしか逢えない家族を想いながら、一人で暮らしている。
いつも、この母を私が思うときに、一番に浮かぶのは、北にいる息子たち、その家族に生活物資を送る姿だ。
自分の生活は切り詰めて、家も半分売り、仕送りを続けた。
カメラに映る母の台所は整然と片付けられていて、無駄なものは買わずに暮らしてきたのだと伝わってくる。
「オモニは孫たちの靴のサイズ、背の高さ、洋服のサイズを、全部空で覚えている。
孫たちはどんどん大きくなり、すぐにサイズが変わるのに、いつも正確に把握しているのだ」
とヤン監督は、著書「ディア・ピョンヤン」の中で書いている。
実家は一部屋、荷造り部屋になっている。
孫たちが霜焼けを通り越して凍傷になってしまったと聞いた時は、段ボール一箱分のホカロンを送った。
帰国者の中でホカロンが日本から送られてきたのは、この息子たちが初めてだったそうだ。
「帰国事業」で息子3人を北朝鮮に送った母。
「地上の楽園」から初めて届いた写真に写っている息子があまりにも痩せ細っていたので、その場で破り捨て、泣いた。
それ以来、仕送りを欠かしたことがない。その仕送りは、息子家族にとって、生命線だ。
帰らせなければよかった、と母が口にすることはない。
帰らせなければよかったことが、明らかでも。
その一言を言葉にする代わりに、仕送りを続けている。
どれほどの想いで荷物を詰めているのだろう、と思うけれど、その表情は明るい。
そんな母が、ある時、娘であるヤン監督に壮絶な体験を初めて打ち明けた。
―1948年、当時18歳の母は韓国現代史上最大のタブーと言われる、3万人近い島民が政府によって虐殺された「済州4・3事件」の当事者だったと。
記憶を殺して生きてきた母が、その記憶を呼び起こし、生々しく語り尽くしたその夜、アルツハイマー病が劇的に進行する。
奥底から引っ張り出し、放たれた記憶は再び母に戻ることはなかった。
アルツハイマーが進行することはさまざまなことが困難になる一方で、この辛い記憶と母がこれ以上向き合うことはないのかもしれないのが、唯一の救いだ。
消えゆく記憶を掬い取ろうと、ヤン監督は母を済州島に連れて行く。
「4・3事件」の当事者だったということが、果たして母にどんな影響を与えたのか。
兄たちを「北」に行かせた母を、心の中で責めていたヤン監督は、壮絶な歴史の地に立って、はじめて母の信念を、身を持って理解をする。
なぜ母は、韓国政府を徹底的に否定し、3人の息子を送るほど北朝鮮を信じてきたのか、と。
事件の研究所で、当時のことについて何も答えられなくなった母の傍で「私は何も分かっていなかった」と涙を流しながら告白するヤン監督。
消えゆく記憶と、受け継がれた記憶。
この瞬間、「私も何も分かっていなかったのだ・・・」という思いが、観客である私の身体に突き刺さった。
母は娘に、記憶を託した。
娘である監督は、映画を通して、観客に伝えた。
観客である私は、母のスープを一緒に飲んだような気持ちになり、大まかだけれど参鶏湯のレシピも伝授された。
そして、この歴史も受け止めなければいけない。
観客として。日本人として。
あえてアニメーションで描かれた「済州島4・3虐殺事件」を。
より鮮明に焼きついた壮絶な事件のきっかけが、なんであったかを。
そこに住んでいた、それだけで殺されてしまう地獄が、2022年の今もまた、繰り返されようとしていることに戦慄する。
でもこれは、誰かを、何かを責める映画ではない。
和解の物語であり、普遍的な家族の物語だ。
まずは、美味しいスープを、みんなで一緒に飲もう。思想や価値観が、違っても。
振り返ってみれば、スープがない国はないのだ。
監督・脚本・ナレーション:ヤン ヨンヒ
韓国・日本/2021/118分
6月11日(土)より(東京)ユーロスペース、ポレポレ東中野、(大阪)シネマート心斎橋、第七藝術劇場 ほか全国の劇場で順次公開
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