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相田冬二
アピチャッポンが描く【表現の裸体】
映画作家が自身の最高傑作を撮り上げることは決して難しいことではなく、それは不断の向上さえ継続していれば然るべきタイミングで訪れるものにすぎない。
だが映画監督が、世界でたったひとりの女優の最高傑作を完成させることは並大抵のことではなく、それが実現したときは、ごく控え目に【奇蹟】の一語を用いるより他はない。
アピチャッポンは、すでに数多の栄光に包まれている唯一無二の女優ティルダ・スウィントンの独自性を最も輝かせる、慟哭の一撃を世に放った。
このイングランド女優の威風堂々とした佇まいから、屈指のエレガンスを採掘し、その奥底に潜む繊細さを磨き上げ、さらに明滅する一輪の花のグラデーションを余すことなく捉えきった。
そこでは、崇高な芸術体験が待ち受ける。
デジタルとアナログが共存する、魔と微笑が分かち難く結びついた、謎の音を耳にした女性。
彼女の、魂の軌跡を、当て所なく予測不能の旅路として追跡する映画はけれども、ただの一瞬も抽象には陥らない。
すべては具体的で、リアルだ。
轟音の中に静寂があり、静寂の中に音響がある。
隣り合わせにある往来を、エコーと耳鳴りの循環として活写していく音響設計には、優雅なショックと、ユーモラスな間合いがあり、それは緊張と安堵の幸福な邂逅ですらある。
しかし、真に特筆すべきは、ティルダ・スウィントンにスペイン語を話させていることであり、その合間にふと、脱臼のように零れ落ちる英語の、限りなくモノローグに近い響きである。
この映画に耳を澄ましているわたしたちの聴覚は、知らず知らずのうちに本能を回復しており、物事の変化や事象の変調を察知するモチベーションを有効活用できるようになっている。
だからこそ、スペイン語の波動から、静かにざわめき立つスウィントン特有の英語の深淵を発見することになるのだ。
【気づく】という現象は、謎が解明されたり、疑問に決着がついたり、腑に落ちて安心するなどという、安手のミステリー小説で事足りるようなものではない。
それは【懐かしい未知との遭遇】なのである。
懐かしいが、未知。遭遇なのに、懐かしい。
このメビウスの輪のごとき、時間と空間の反転こそが【気づく】という現象の正体だ。
そして、それは理屈ではない。
ただそこにある石につい躓いてしまうことと同義であり、結局はシンプルに石という存在を認知することへとたどり着く。
在るものは、在る。
単純なことを証明するために、この映画のあらゆる【せせらぎとノイズ】はパートナーシップを結んでいる。
デレク・ジャーマン、ジム・ジャームッシュ、ウェス・アンダーソンらのミューズとして、神々しい風格で映画たちを見護ってきたティルダ・スウィントンが、ここではエーデルワイスのような可憐さで、映画に見つめられていることを忘れるべきではない。
彼女の、高貴な樹木を思わせるスレンダーな体躯が、ここまで風にゆらめいている姿を、わたしたちは初めて目撃したのではないだろうか。
精神の重力を失いつつも、音響の源を目がけ、おそれることなくしなやかに滑走していく主人公の行程を【冒険】と呼んでみたい。
それは、女優の【冒険】であり、映画作家の【冒険】である。
演技の【冒険】ではなく、映像の【冒険】でもなく、ただ、存在の【冒険】であろうとする意志が、作品にはみなぎっている。
意識の【冒険】と、無意識の【冒険】が交錯する。
そして、これほど優れたティルダ・スウィントン批評もかつてなかった。
アダム・ドライバーに先行する【デッドパン】の代名詞たるこの女優は、偉大な無表情の彼方にある途方もない哀しみを、いささかの露悪も感じさせないピュアネスとともに、ここに開陳している。
【表現の裸体】ともいうべきテクスチャのすっぴんぶりも、後世に語り継がれるだろう。
女優ティルダ・スウィントンの肖像画。
それは、わたしたちにとって永遠の【メモリア=記憶】となる。
「MEMORIA メモリア」
監督:アピチャッポン・ウィーラーセクタン
出演:ティルダ・スウィントン
2021/136分/コロンビア、タイ、イギリス、メキシコ、フランス、ドイツ、カタール
原題 : Memoria
配給:ファインフィルムズ
©Kick the Machine Films, Burning, Anna Sanders Films, Match Factory Productions, ZDF/Arte and Piano, 2021.
3月4日(金)よりヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ 他にてロードショー