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review

82年生まれ、キム・ジヨン

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相田冬二


本作のヒロインは「はちどり」の少女が成長した姿とも言える

韓国では社会現象にもなった同名ベストセラー小説を映画化した作品。

<女性の生きづらさ>をテーマにした同書は、小説の枠を超え、現代を生きることのルポルタージュとして、単なる共感ではなく、その<記述>や<警鐘>が、多くの人の心に届いたのだろう。

「キム・ジヨン」という固有名詞は、凡庸さと匿名性を兼ね備えた<誰でもなさ>を表象しており、あえて日本語にするなら、かつてであれば「山田花子」、いまなら「佐藤詩織」と言ったところか。

ありふれた苗字とありふれた名前の組み合わせは、<大多数の中の一人>を痛感させるが、つまりこれは<特別ではない女性>の物語なのだろう。

抑圧される女性性のありようは、「はちどり」の中でもヴァリエーション豊かに描かれた。
あの作品の重要な点は、<少女>を描いているようで、実は<女性>を見つめていることだった。

もし、<少女>が抑圧されているとすれば、それは<年少の女性>が抑圧されていることであり、それはとりもなおさず、<女性>の抑圧に他ならないとする視点が聡明だった。

なによりも<少女>に対する抑圧の概念を、性的な先入観から解放していたし、それは主人公のキャスティングやカメラアングル、映像の湿度にもしっかりあらわれていた。

抑圧の何が問題かと言えば、抑圧をめぐる世間の論議もまた固定観念に支配されているという歴然とした事実である。

因果関係は全くないが、大きく捉えれば、本作のヒロインは「はちどり」の少女が成長した姿とも言える。

ほんとうは<特別なはずの少女>が、勉強し、就職し、人生のキャリアを築いたものの、結婚や育児を受け入れたことによって、アイデンティティ・クライシスに陥る。

子供はまだ幼い。
だから周囲は、主人公の挙動にうろたえる。
混乱を派生させているのは、<女性とはこうあるべき>という固定観念である。

つまり、<母>であるならば、子供を育てることが第一であり、職場(社会人としての居場所)への復帰は見送っても当たり前、という考え方に、<先輩女性>である母親世代が縛られているという具体的な指摘が、ここにはある。

本来であれば、真っ先に救済にやって来るはずの実の母親が、全く無力であるという事実も、ここでは見据えられる。

もっとも、この母親は娘よりも息子を優先してきた夫に対して、直裁な抗議を叫んではいる。

しかし、決して人が悪そうには見えない夫=父親は、それをスルーする。
なんとなく、だが、はっきりと、無視するのだ。

ある者にとっては深刻な事態が、別な者にとってはまったく深刻ではない。
この、あまりに無慈悲な現実が、親子間や夫婦間といった近親者のあいだで起こっていることこそ、おそらく最大の問題だろう。

この映画は、このズレと齟齬を、つぶさに一つずつ拾い、冷静にレイアウトしている。

それにしてもコン・ユはナイスキャスティングだ。

マッチョではない夫は、精神のバランスを失った妻の<回復>のため、仕事への復帰の可能性も容認するが、それが彼女個人のためではなく、己の<妻>や、自分の子供の<母>のための選択でしかないことが、その表情に幾度か立ち現れる。

優しく、ときには献身的でさえある夫が、いちばん何も理解していない。
この劇の構造を嫌味なくたいげんできるのは、コン・ユしかいなかったかもしれない。

ひとりの女性の内面の物語として向き合ってもいいが、新いかたちの<断絶>の夫婦劇として見つめるなら、ときにホラーのようなおそろしさも浮かび上がる。

無関心、無頓着こそが、人間がはらむ最強のおそろしさ。
コン・ユは、このおそろしさを表現する名手であると思う。

女性を抑圧しているのは韓国だけではない。
日本も間違いなく抑圧しているし、この件について進歩的とされる諸外国にも、それぞれに質の異なる抑圧が存在する。

前述した通り、抑圧という概念そのものが常に抑圧を受けている。
「82年生まれ、キム・ジヨン」が、抑圧そのものを解放する契機になることを、男性のひとりとして願っている。



「82年生まれ、キム・ジヨン」

監督:キム・ドヨン
原作:チョ・ナムジュ
出演:チョン・ユミ/コン・ユ
2019年製作/118分/韓国
原題:Kim Ji-young: Born 1982

配給:クロックワークス
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10月9日(金)より 新宿ピカデリーほか全国ロードショー


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