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ナワポン・タムロンラタナリット

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夏目深雪


少女とその世界の儚さ、またその残酷さ

アピチャッポン・ウィーラセタクンに次ぐタイのアート系作家の旗手と言われているナワポン・タムロンラタナリット。今まで撮った7本の長編は、全て東京国際映画祭か大阪アジアン映画祭で上映され、昨年末に最新作「ハッピー・オールド・イヤー」が初めて劇場公開された。

第43回ぴあフィルムフェスティバルでこの度特集が組まれ、長編全てと監督がセレクトした短・中編集が上映される。アート系映画とエンタテインメントの壁も軽々と乗り越える彼の創作の秘密に迫るべく、インタビューを行った。

――今回あなたの作品をほぼ全て観て、少女とその世界の儚さ、またその残酷さが印象に残りました。ご自分では、少女というテーマは意識されていますか。どんなところから来ていると考えられますか?

自分が女性に囲まれて育ってきた環境のせいだと思います。女性の友人も多かったですし、母親の方が親しかったりするので、自然に沁み込んでいったような感じですね。僕はチュラロンコン大学でリベラルアーツを勉強したんですが、一学年300人のうち、男性は10人だったんです。その頃(2003年)は言語学や社会学を専攻するのは、女性が多かった。

――少女の美しさをただ愛でるだけではなく、恋愛により傷つけられることによってその存在の有限性を照らし出す手法は、日本の監督、例えば岩井俊二や山戸結希にも共通するものだと思います。彼らと連帯を感じることはありますか?

多少の影響は受けていると思いますが、そんなに多くはないです。タイと日本の文化の違いもありますし。少女の美しさといった面では共感できるかもしれません。恋愛で傷つくといった面に関しては、むしろ個人的な興味ですね。

――また一方で、岩井や山戸は少女の性の問題を鋭く描いてきた作家でもあります。「リリイ・シュシュのすべて」「溺れたナイフ」で少女のレイプの問題を扱っています。それに較べると、あなたの映画には性の不在が目立ちますね。

少女を描いてはいますが、自分のテーマは性のことではなくて、個人的な内面ですね。例えば成長していくうちに、自分の思っていたことと現実とは違う、といったようなことをテーマにしています。

――検閲の問題はいかがでしょうか。「あの店長」で海賊版の問題を扱っていますが、欧米や日本の映画は例え少女であろうとも激しい性描写があったりしますよね。タイ映画は、検閲や、むしろ風土の問題があるのかなと想像しますが、そういったものは少ない。

それは卵が先か鶏が先かという問題ですね。タイは宗教や政治に捉われて成長した人々がいるので、以前だったら性描写がある映画を作ったら検閲に引っかかった。でも今だったら、そんなこともないと思います。性描写は10年くらいいろんな人たちが闘った結果、かなり検閲でも通るようになった。ただ、実際に作る人があまりいない。

――監督の映画は少女の精神性のようなものを鋭く捉えていると思います。他にも少女に拘って映画を撮っている監督はいます。例えばソフィア・コッポラ監督とか。どなたか共感する監督はいらっしゃいますか?

その視点でいくと、自分は日本映画に影響を受けています。日本は少女バンドものが多いんですが、「リンダリンダリンダ」や「ソラニン」などに描かれているのは、アジアっぽい問題だと思うんですね。

ソフィア・コッポラはやっぱりアメリカの少女を撮っているので、さほど共感はできない。「SUNNY 強い気持ち、強い愛」や「Blue」など、日本映画の方が共感できる。

――一方、あなたの映画は映画というメディア、また写真やSNSといった現代メディアに自覚的ですね。タイのアート系の監督の活躍はアピチャッポンにせよ、アノーチャ・スウィーチャーゴーンポンにせよ、目覚ましいものがあります。彼らからの影響や連帯はいかがでしょうか。

自分は、アピチャッポン監督とペンエーグ・ラッタナルアーン監督に影響を受けていると思いますが、それぞれ違う面からですね。ペンエーグ監督からはネガティブなストーリーの作り方。アピチャッポン監督からは映画でどんな風に遊べるかといったことですね。

――長編デビュー作「36のシーン」のアイディアは、ご自分の部屋にあるHDDの山を見て、たまに「これが全て消えてしまったら…」と思ったことだそう。最新作「ハッピー・オールド・イヤー」でも友人の昔の写真データをジーンが苦労して見つけるシーンがあります。映像記録の消失があなたの重要なテーマの一つでもあります。

自分はアナログとデジタルの繋ぎ目の時代に生きてきた人間です。以前だったら写真は必ず現像しないとだめだったのが、今ではハードディスクにコピーする。今の若者はもうそうではないと思いますが、自分はデジカメが出てきた頃を知っているので、すごくその問題が身近です。

――映像記録の消失というテーマは、少女を描く際の儚さと繋がっているように思えます。

儚さというよりは、現実との対峙だと思います。少女の美しさが変化して消えていくかもしれないこと、デジタル画像が消えていくかもしれないこと。それらは、ハッピーエンドではないかもしれない。だからこそ私が描きたいのは「成長」なんですね。

――第二作目「マリー・イズ・ハッピー」はツイートが映画を牽引していく手法がとても新鮮ですね。中編“MAYTHAWEE”でもSNSのコメントが巧く作劇に組み込まれていました。
SNSのテキストが映画に登場するのは岩井の「リリイ・シュシュのすべて」など、ないわけではないですが、「マリー…」はドラマとSNSの比が半分くらいでしょうか。今までにないタイプの映画で、観た時は驚きました。

僕はデジタルが出てきた初期の時代を知っているんですね。ある日突然、一万枚の写真を保存できるようになった。

SNSはどういうコミュニケーションをしているのか、ツイッターが出てきてどうコミュニケーションの形が変わったかなど、ずっと興味を持っていました。ただ、SNSが出てきたからといって人生がラクになったわけではないと思います。

例えば、“MAYTHAWEE”だったら、新しいスタイルの傷つけ合いかなと思います。また、ツイッターっていうのは、新時代の人々の日記なのかなと思ったりもします。

――「ダイ・トゥモロー」は死の前日を俳優が演じるシーン、死に関する市井の人々のインタビュー、そして死にまつわるデータの三つの要素が映画を形作っていきます。インタビューやSNSのテキストといった言葉と映像の対比があなたの映画の特徴の一つでもあると思うんですが、死という重いテーマが根底にあるため、詩的でとても感動的な映画になっていますね。構成はどういうところから来たんでしょうか。

この映画は本のような構成になっています。冒頭の言葉があって、インタビューがあって、短い話がある。元々本を作るのが好きなので、本を作る時の構成を映画に当てはめたら面白いんじゃないかと思って作りました。

――本は何冊も作っているんですか?

実は映画を撮る前は映画批評を書いたり、映画監督のインタビューを雑誌に寄稿していました。当時は撮影機材を持っておらず、映画のシーンを自分で文章にして友達に見せたりしていました。自分にとっては文字は馴染みのあるものなんです。

実は映画を撮った時に、それに関する本も一緒に作って出しているんです。「マリー・イズ・ハッピー」の時も、「ダイ・トゥモロー」の時もブックレットを作ったんです。映画を観てから、本で続きを読むということができる。

「ダイ・トゥモロー」は、作った時とても満足した作品です。今までと違ったスタイルのものが作れたと思いました。

――一方、監督には「フリーランス」や「ハッピー・オールド・イヤー」のようにいわゆる「普通の」ドラマもありますね。さきほど、ペンエーグ監督の影響を受けていると聞いて「成る程」と思ったんですが、「ダイ・トゥモロー」などを作る時と、作り方が全然違うのではないでしょうか。

アピチャッポン監督とペンエーグ監督は確かに全然違いますが、自分はそれぞれに全く違う意味での興味を持っているので、違うスタイルを行き来することに違和感はないんです。「マリー・イズ・ハッピー」の映画のスタイルは実験的なものを取っていますが、ドラマ的な要素もあります。

どちらのスタイルになるかというのは、次の映画をどのスタイルにするかということによります。「ダイ・トゥモロー」は、ネガティブなストーリーではないと思っていたので、あのスタイルになりました。

――ドラマの場合、ハッピーエンドではなくシニカルになるのは、何か拘りが?

悲しさは記憶に残るし、学びがあるからだと思います。ハッピーエンドだと、「よかったね」でスルーして、記憶に残らないのではないでしょうか。失望や悲しみは、人生のリアルなんじゃないかと思って、そういう終わり方だと、観客は何かを持ち帰るんじゃないかと。自分にとってのリアルがそうだからだと思います。

――最新作の「ハッピー・オールド・イヤー」も、恋愛への視点の厳しさが印象に残り、非常に胸に刺さりました。製作はGDH559ですが、例えば結末をもう少し明るくして欲しいという要望があったりはしなかったんでしょうか。

事情をよくご存知ですね(笑)。GDH559において僕は例外的な存在なんだと思います。好きなようにさせてくれますし、元々期待されていない(笑)。

「ハッピー・オールド・イヤー」ではポジティブなものだけでなく、ネガティブな面もある、恋愛の複雑な面を描きました。人って恋愛に対してすごく我儘なんですよね。あの映画で誰が正しいかというのは、人によると思います。ジーンが正しいと思う人もいれば、エムが正しいと思う人もいる。それが私の意図するところで、疑問は提示するけど、答えは出さない。

――監督のドラマに対する手腕や可能性をすごく感じた一本でした。

でもどんな作品においてもベーシックな部分は変わりません。今まであったシステム――例えば「ハッピー・オールド・イヤー」でしたら恋愛――に対する疑問、またその時代の移り変わりなどを記録しています。

――それでは最後に、コロナで大変なことになっているとは思いますが、タイの製作・映画公開状況、そして次回作について教えてください。

コロナで撮影も上映も止まってしまっています。今タイで人々が興味があるのは病気と政治なんですが、それらは密接に繋がっています。何故なら、政治がだめだからワクチンがない。今変化しているところですね。

次回作に関しては、今までの7本の作品とは全く違う作品になると思います。実は自分では今までの7本で一つのシーズンが終わった気がしていて。やりたいことはやり尽くしたので、今度は違うスタイルでやってみたい。今まで取り上げたことのないテーマを扱ったものになると思います。

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「ハッピー・オールド・イヤー」


ナワポン・タムロンラタナリット
1984年2月4日、タイ・バンコク生まれ。チュラロンコン大学芸術学部在学中に短編映画制作を開始。脚本家、脚本コンサルタント、映画評論家を経て監督長編デビュー作「36のシーン」(12年)で釜山国際映画祭でニューカレントアワードを受賞。監督作に「マリー・イズ・ハッピー」(13年)、「あの店長」(14年)、「フリーランス」(15年)、大阪アジアン映画祭グランプリ受賞作「ハッピー・オールド・イヤー」(19年)ほか。

第43回ぴあフィルムフェスティバル
ナワポン・タムロンラタナリット監督特集
〜タイからの新しい風〜

9月11日(土)~25日(土)国立映画アーカイブ *月曜休館


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