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夏目深雪
2人の少年と1人の母親の因果を描き切る
神話において人類最初の殺人の加害者・被害者であると言われるカインとアベルの例を出すまでもなく、映画における兄弟の物語は死とギミックに満ちている。
同じアジアの映画だと香港のニック・チェク監督の「年少日記」、邦画だと西川美和監督の「ゆれる」、中野量太監督の「兄を持ち運べるサイズに」。
ギリシャのアリアン・ラべド監督の「九月と七月の姉妹」もこちらは姉妹となるが、そうだ。
強権的な父親、極端に出来や素行の悪い兄、姉妹で興じる危険なゲーム。
その中で命を落とすが当の兄であっても、周りにいた者が巻き添えのような形で落とすにせよ、同じ血が流れ、同じ家庭環境で一緒に育った、自分の分身のようでいて最初の他人である兄の(例え本人が亡くなってしまっていても)弟に及ぼす影響、兄弟間の愛憎、そのパワーゲームが映画を牽引する。
「ピアス 刺心」は「ゆれる」と同じ“兄が故意に人を殺したのか、事故だったのか”に関し、弟が揺れるという図式を持つ。
「ゆれる」の弟は実は現場を目撃していて、それを表立って発言するか――つまり、兄を庇うのか告発するのか――で映画が動いていく。
「ピアス 刺心」では弟は現場にいたわけではないので真偽は分からないのだが、似た事件が起きたことをきっかけに兄への疑惑を深めていく。
「ピアス 刺心」で特筆すべきは、ギミックが最小限だということだ。
「シックス・センス」を嚆矢とした“騙る映画”の系譜があり、「年少日記」や「九月と七月の姉妹」はその系譜の映画である。
今まで観客が見せられていた事実がひっくり返され、または曖昧にされてきた事実が明るみに出るという、一人称の語りが可能な小説特有の技法である“信頼できない語り手”が応用されたようなギミック。
それらが駆使された映画は鮮烈な印象を残すが、「ピアス 刺心」はほとんどそれに頼らない。
また、家庭環境の悪さ、親や兄本人の邪悪さなども非常に抑制が利いているのも特徴である。
それらは他の作品では兄弟間の愛憎をドライブさせ、悲劇を加速させるが、「ピアス 刺心」はそれにも頼らないのである。
強権的な父親はいず、母親は兄を嫌い遠ざけようとするが、事故前から彼らの関係が悪かったという描写はない。
兄本人も、善人とも悪人とも判断がつかないくらい普通の人間に描かれる。
鮮烈なギミックにも、カタルシスを得やすい善悪二元論にも頼らないこの映画は、それで何を得ているのだろうか。
そもそも、この映画のクラシカルな印象はそれらの欠如から来ているのだろう。
人物造詣だけでニューロティック風な心理スリラーを作り上げるのは、往年のフィルム・ノワールを彷彿とさせる。
「ピアス 刺心」に登場するのは、悪人などいない、どこにでもありそうな家庭である(その設定の中で弟をゲイにするのが自然でまたいい)。
ここでこの家族の歯車を狂わせてしまうのは、各人の家族への想いである。
母親は自分や体面もではあるが、何よりも弟を守りたかったのであろう。
弟に無実を信じてもらえなかった兄の絶望と、そんな兄の気持ちを知った弟の取る行動が描かれるラストシーンはこの映画の白眉である。
兄弟の愛情が溢れ出て、またいかに家族がお互いに影響を受け合っているか――家族の業のようなものが突如顕わになる。
もはやインターネット時代を飛び越してAI時代に突入している。
映画などの文化にも非=人間的なものが入り込んできているが、まだ家族という最小単位の集団はなくなってはいない。
どうして近年大国で戦争が勃発し、全般的にキナ臭いのか。
国家という集団の運営も、国際政治も結局は人間がやっているのである。
人間の業、家族の業というドメスティックで根元的なものを見つめ直すことが疎かになっていないだろうか。
映画としての鮮烈さを優先せず、また善悪二元論に陥ることなく、2人の少年と1人の母親の因果を描き切ったこの作品が、投げかけるものは大きいだろう。
監督・脚本:ネリシア・ロウ
出演:リウ・シウフー/ツァオ・ヨウニン/ディン・ニン
原題:刺心切骨
英題:Pierce
配給:インターフィルム
2024年/106分/シンガポール、台湾、ポーランド
© Potocol_Flash Forward Entertainment_Harine Films_Elysiüm Ciné
12月5日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国公開